どこまでも透明な青い世界が、少年の目の前にひろがっていた。
あの恐ろしい少女の瞳の色。死の色。あの人ももう、この海のなかに沈んでしまった。ジュピター・パンタグリュエルと一緒に。
(……パンタグリュエル?)
サイレははたと気がついた。(あいつ、シファさんのファンのあいつ! なんか名家がどうのこうのと言っていたけど、ザイウスの家の子孫なのか! というか、セレステの)
サイレは勢いよく起きあがろうとして、ほとんど動ける場所がないことに気づいた。視界が青いのは、顔のまえに小窓があって、外が見えるようになっていたからだ。
青い。
これは、第六階層のカフェ〈ラ・メール〉から見える〈毒の海〉の色だ。〈毒の海〉の水のなかでは、人は生きていることはできない。
けれど、サイレは自分がおさめられている箱の中で、思いきり手足を動かしていた。思いのほか簡単に箱はひらき、サイレは毒の水に包まれる。箱はゆるやかに水底へと落ちていく。サイレは水色のさなかに、ただよった。
絶望の海は、果てしなくうつくしい。
サイレはいつまでも、その水色にみとれていた。
だが、やがて不思議に思った。どうして死なないのだろう。それとも、もう死んでいるのか? 死んで心だけになって、水のなかに浮かんでいるのか? 〈毒の海〉は、死んだ心の行き先なのか。
〈生きてもいない〉
と、何かが言った。〈しかし死んでもいない〉
(だれ……?)
サイレはあたりを見渡した。背後を振り返ると、トリゴナルの三角錐が、海底からそびえている。
外から見ると、なんて大きいのだろう。三角錐の頂点は水面のうえに出ており、水の中からはその影がゆらめいて見える。
ふいに、何かの影が横切った気がした。
サイレは水中エクササイズが得意ではない。だが、思った以上に自由に、思った以上に速く、サイレの意図どおりの速さで、水のなかを進むことができた。
三角錐の辺をまたいで、別の面へ。
予想をはるかに越える大きな影が、サイレを見下ろしていた。
全長はトリゴナルの高さにも届きそうな、巨大な爬虫類。長い首の上に、全身のサイズに比べれば華奢な頭がついていて、黒い静かな眼がサイレをみていた。
〈……ルル?〉
サイレはその名前を呼んだ。
〈かつて人間から『ルル』『最後の竜』と呼ばれたものの星は、すでに墜ちた。わたしは別の個体。あなたの運命を伝えるためにやってきた〉
〈『最後』じゃなかったんだ……〉
〈それは、人間がつけた呼び名にすぎない〉
なんと〈竜〉は、このバトロイアで生きのびていたのだ。人類は、トリゴナルに逃げこんだために、この〈毒の海〉のなかでもなお生きながらえる生物を発見できなかったのだろう。
が、サイレの考えていることを〈竜〉は見透かして、頭を振ったようだった。
〈生物といえるかどうか。われわれもまた、力は弱まったとはいえ、星の子ども。生物はやはりこのなかでは生きられない〉
〈じゃあ、おれはなんなの? おれは今、ここで生きている。呼吸もできる〉
正確には、意識して自分のからだを観察していると、呼吸はしていないような気がした。正しくは、呼吸はしていない気がするが、今ここに生きて、意思をもって話をしている、それはまちがいない。
〈あなたもまた、星の子だ〉
〈竜〉の姿をした星の子は、告げる。
〈『最後の竜』と呼ばれた星の子――つまり、星神の残された力が、みずからの星とあなたの星を入れ替えた。『竜』は『冬の王』として死んだ。あなたは、星の子として生まれ変わった。あなたはどこにでも行ける。ありとあらゆる時代、地域、宇宙、あなたはどこにでも偏在する。しかしあなたはもはや人間ではない。人間として死ぬことはできない〉
言うべきことは伝えた、と。
〈竜〉は言って、さっと泳ぎだす。
〈待って、まだ聞きたいことが〉
サイレは手をのばした。
そう思った次の瞬間、〈竜〉の面前にサイレはいた。
〈シリウスは、ラケルタはどこ?〉
〈シリウスと星神の約束は果たされた。シリウスは人間の娘となった〉
〈おれは人間じゃなくなったのに?〉
〈竜〉は答えなかった。
けれど、最後にもうひと言だけ、付け足した。
〈神話の生命を、生きよ〉
どこまでも透明な水のなかに、少年はひとり、生きもせず死にもせず、漂っていく。
