市長公認オペレッタクラブ〈カンパニエ〉団長ギルヴィエラ・ハンは天井をあおいだ。
三日間の定期公演の初日が終わり、今日は休憩日だった。公演二日めは明日。ひとり暮らしのアパルトマンでのんびりしていたギルヴィエラは、突然外に市長の公用車をつけられ、「イヴお嬢さまがお呼びです」といわれて有無をいわさず連れてこられたのである。
クロカワ市長の公邸は最上層にあって、まだ〈毒の海〉の下に沈んでいない外壁に面していた。わけても義父である市長に溺愛されて育ったイヴの部屋は、強化ガラスにじかに接した屋根裏風の形状で、下に海、上に空が望める、トリゴナルK随一のとんでもない場所だった。
「監視カメラはもちろん警察がチェックしたけど、誰もカメラに映っていなかったんだって。ただ、強化ガラスの壁がぼこぼこになっていく様子だけが映像に残されたってわけ」
「怖いな、それは」
「わたしがやりました」
「んなッ?」
さすがのギルヴィエラも、出されたコーヒーをカップにそのまま吐きだした。
「映像が残るとちょっと困るから。あ、この部屋、監視カメラの管理区域から外してるから、なに言っても大丈夫だよ」
「ツッコミどころが多すぎて、どこから何を言ったらいいのかわからん」
「古い言葉で『蛇の道は蛇』ってね。セキュリティシステムのことはセキュリティシステム?」
「皆目わからん」
「いいのいいの。こんなことどうでも。もうラボのカメラデータは加工しちゃったんだし。わたしの部屋も前から外してあるし。やっぱりね、AIの弱点っていうのは、プログラムに問題なければエラーは起こらないってことだよね。蛇の道さえ知ってたら簡単簡単」
「私はおまえが怖い」
「大事なことはね、ギルヴィ。お願いがあるの」
「すごく聞きたくない」
「あのねギルヴィ」
イヴはいつものように、まったく相手の反応など意に介さない。「〈カンパニエ〉の公演なんだけど。わたしが、もっともっとおもしろくしてあげる」
「怖いよ!」
「ねえギルヴィ。サイレが恋して、たしかに歌はずっとよくなった。だけどサイレにとってヒロイン役のわたしは妹みたいなものでしょ。歌声に切なさが出たとはいえ、演技に身が入ってないでしょ。このままじゃマ×××……」
「やめろ」
ギルヴィエラは下品な言葉を途中で遮った。
「私たちはアマチュア団体だ。クオリティには限界がある、それは仕方ない」
「そう、わたしたちはアマチュア。だけど今回は、まだやれることはあるんだよ。というか、やるから。当日になって驚かないでほしいのね」
「んあー!」
団員から恐れられている団長ギルヴィエラ・ハンは頭を抱える。だいたいのベテラン団員はそうだが、イヴともわりと長いつきあいだ。だからよくわかっている。このイヴがやると決めたことは、どんなにイカれていても必ず実行するということを。
「なにする気だ」
「最終日ね。わたしは何者かに誘拐されます」
「……んーあー!」
ギルヴィエラは再び天井を振り仰いだ。
この〈毒の海〉に浸かったバトロイアに、天文学の授業で習ったとおり〈星神〉というものが存在しているのなら、この恐ろしい小娘から助けてほしい。ギルヴィエラは心からそう思った。
