もちろん、昔に比べればからだは重い。
なにしろティンダルの要であるアルバ・サイフは、トリゴナル内では違法武器の一種だ。ことが終わったら当然問題になるだろう。ことが終われば用はなくなるのだからかまわないともいえるが、ともあれ違法なだけに、気軽にパンタグリュエル家の墓所から回収できなかったのは痛かった。
トリゴナルの便利な生活では、ただでさえ筋力が低下しやすい。いや、そもそも筋力がつきづらい。それなのに、独特な筋肉を要するのがアルバ・サイフだ。それゆえに、ティンダルの戦士は肌身離さずアルバ・サイフを身につけ、自分の手足と同様に扱って絶えず鍛えつづけていた。
ジュピター・パンタグリュエルに返してもらうまで、ラケルタは生まれてから一度もアルバ・サイフに触れなかった。筋力トレーニングはできても、アルバ・サイフから離れていたのでは、いざというときに自分の手足にならない。
記憶は自分の中にある。五歳の「あのとき」、自分がエンジュであったこと、星の子シリウスであったことを思いだして以来、それまでのすべての人生の記憶が蘇った。人間にとって、忘却は必要だ。しかし、星の子であるラケルタにとって忘却は無意味、つまり許容量などというものはない。それは、忘れたくない記憶を忘れないという意味ではありがたかったが、と同時に、忘れえぬ記憶にときおり支配されるということも意味していた。冷たさの記憶や、血の記憶、炎の記憶。
彼に再会したあとは、幸せでもあり、不幸でもあった。彼と再会してからここにくるまで、五年の月日を要した。彼が思いだすためには――妹星であるルキフェル、今のシファによる星(メモリア)の発見が必須だった。
(あれは)
これも、忘れえぬ記憶のひとつだ。星の子の記憶を取り戻すときの、すべての霧が晴れたような感覚。目の前にいたはずの大切なものと、もう二度と会えない悲しみ。感情に支配され、あたかもそれを忘れることを望むかのように、五歳のラケルタは号泣した。
あの子の星(メモリア)を、ルキフェルは発見した。星の子は星の動きを感知する。そのためにシファは天才天文学者と呼ばれている。
ルキフェル――対の星。星神とシリウスとの賭けの妨害者。にもかかわらず、シリウスを助けるような真似をルキフェルがするのは、簡単に勝つことに飽きたからだ。
彼が思いだすギリギリのところで、希望を奪う。それが、彼女の希望。サイレが過去を思いだしかけているのを、シファは知っている。
(だからイヴを使って、いま戦いを挑んできた)
サイレを死なせたくない。イヴももう死なせたくない。ラケルタのまわりにいる、大切な星たち。
――神さま。今度こそわたしは賭けに勝ちます。
ラケルタは、立ち止まる。
展望エリアの巨大なガラスの前に、ふたつの影があった。
ひとつは、イヴ。
もうひとつが――シファ。
イヴはとくに拘束されてはいなかった。シファからは逃げられないことを親友は理解していて、自分からついてきたのだろう。イヴは賢い。遠い昔から、ずっと。
昔、ティンダルでは彼女の存在を心から頼りにしていて、彼女に歌を教えてもらったことが大きな誇りだった。
(スエン。かつて、怒り、嘆き悲しんだ自分が、視力を奪い、永遠に歌を伝承する役目を負わせた人々の子孫。スエンはそれと知っていたのに、歌をくれた)
「イヴを逃がしていいでしょう? マリオン」
昔の名前を口にすると、とたんにあのときの感情がわきあがるようだった。
「知ってのとおり、この子はあなたの大事な人を最初に殺した一族の末裔よ。星神との約束が今も有効ならば、この子の罪も有効ではないかしら」
「わたしはイヴが大好きなの」
ラケルタの即答に、イヴも、ラケルわたしも大好きだよ! と叫んだ。
「千年も二千年も、わたしはイヴたちを苦しめてきたわ。怒りは徐々に消えていく。後悔しているの。こんな子に、星見の運命を背負わせてしまったことを。もっとも、イヴが伝える前に、わたしは彼と再会して記憶を取り戻し、あなたが彼の星(メモリア)をみつけてくれたおかげでサイレもほぼ記憶を取り戻したわけだけど。ありがとうと言うべきなのかしら」
「お好きに」
くすくす笑って、シファは答えた。「わたしはただ、おもしろくしたかっただけ。星神の命を遂行するのは簡単。単にサイレを殺すだけなら、永遠にあなたの勝ち目はない。殺せばいいだけだもの。星神はあなたに厄介な条件ばかり出した。わたしはそれがうらやましかった。だから、わたしは自分で条件を課すことにしたのよ。
たとえば、星神に許されている範囲であなたの目的に手を貸す。たとえば、サイレを私に夢中にさせる。たとえば、シリウスの歌を奪い、わたしが〈庭〉を手に入れる。たとえば、あなたが二度と別の人生を生きようと思わないぐらいに打ちのめして、それからサイレを殺す。
それには、あなたの夢が叶うかと思ったときに、あなたを殺せばいいの。そのあとで、ゆっくりサイレを殺す。それで今回は終わりよ。また次回」
「次回はない。そのつもり」
ラケルタは短く返した。イヴは真っ赤になって、シファに食ってかかる。
「ちょっと! 絶対絶対、サイレを殺させたりしないんだからね! サイレはラケルと幸せになる。今度こそふたりは幸せになって、一緒に生きる……!」
「愚かな星見」
シファは哀れむようにイヴを一瞥した。「忘れたの? サイレの星は〈冬の王〉の星。死してその地に春をもたらす犠牲の星。最初のサイレが死んだのは、わたしが殺したからではない。わたしに殺されなくても、いずれ祝祭の日を迎えて星神に捧げられるのがサイレの運命。今のこのトリゴナルのお祭り騒ぎ、祝祭じみていると思わない?」
「わかってる!」
イヴはどなった。「それでもサイレには幸せになってもらわなきゃ……サイレはあたしのお兄ちゃんだもん……」
「え? どういうこと」
それどころではなかったが、ついラケルタは聞き返した。
「あたしの本当のパパとママが死んだから、あたしは施設に入れられて、今のパパにみつけられたの。パパにみつけられるまで、あたしは施設でサイレと一緒にいた」
「サイレのご両親は健在では?」
「健在だけど。サイレはある意味、ご両親の子どもじゃないの。市民動物園のカッコウと一緒。サイレは本来、ご両親のもとに生まれる予定じゃなかった。なのに、星神が本当の子どもとサイレの星を入れ替えた。ご両親はサイレに親しみを抱けずに、一時施設に入れていた。本当に小さいときだから、サイレは覚えていないみたい」
「神さま――なんてことを」
でも、とラケルタは思う。そうでなければ、今、サイレに会えていなかった。
(神さま。どう考えればいいんでしょうか。あなたは約束を守ってくださいますか。それとも、わたしの願いが勝手なのでしょうか。見知らぬ人の運命を変えさせて)
――遠い昔、神さまと賭けをした。
生まれたばかりの小さな恋のため。あれから、何千年が経ったのだろうか。まだ自分が、人のかたちもしていなくて、ただの光源にすぎなかったころ。
サイレ。あのころは、その名前ではなかった。
「お待たせしました」
イヴはシファに向きなおる。「そんなわけで、意地でもサイレには幸せになってもらう所存です。〈運命を曲げ、従わせる者〉って、呼ばれてた人なんだから」
「実現する前に死んでもらったけれど。それに、以前あなたを殺す命令を出したのは彼よ」
「うっさいよ」
「――いいかしら」
シファが、するりと歩きだす。それにともなって、手足からのびる鋼の糸が、蛇のごとく鎌首をもたげる。
「そろそろ終わりにしましょう」
「イヴ、離れて。サイレと一緒にエレベータのところへ」
ラケルタの目は、遠巻きにたたずんでいる少年の姿をとらえていた。
遠い昔、今ほどの才能も力も持たなかった少年は、星の子の願いを経て〈王〉の力を持つに至った。あまりにも力弱く、けれどあまりにも強くやさしかった彼がかわいそうで、それを星神に願ったシリウスだが、今はそれでよかったのかわからない。
何がよくて、何が悪かったのか。それでも、ほんの四、五日のあいだしか一緒にいられなくて、あまりにも口惜しくて。シリウスの願いは、星神をうごかしてしまった。
そうして、何千年も経った。
「サイレっ、行こ」
「でも――」
「あたしたちには何もできない! あたしたちはティンダルの戦士じゃないんだから」
イヴは駆けだし、サイレの手を引いていく。高速エレベータ乗り場のガラスドームも、もちろん強化ガラスだ。けれど、アルバ・サイフがつくられた遠い遠い昔には、あらゆるものを切り裂く鋼が存在した。今の人類の文明もその高みへ近づこうとしているが、まだそこまでは実現していない。
ふたりは高速エレベータ乗り場に入り、ガラスの自動ドアは閉められた。サイレとイヴは、ガラスに張りついた。ラケルタとしては奥に引っこんでいてほしかったが、仕方ない。動物園に展示された動物をみつめる幼児のようなふたりに、ラケルタは笑ってしまった。
あれはラケルタが五歳のときだった。あのころ、ラケルタは星の子の記憶を持たなかった。トリゴナルKへ移住してきてしばらくして、両親がラケルタを動物園に連れていってくれた。第二階層、つまり最上階まで吹き抜けになった〈つくられた楽園〉の地上部分から、ラケルタはガラス越しに、そこにいた巨大生物をみつめた。
――〈最後の竜〉。
それは、太古に滅亡した恐竜の最後の生き残りであり、唯一無二の存在だった。ほかの仲間もなく一匹だけで生きのびていた。しかも彼はずっと人間のそばにいたという。古くは見世物小屋にいたことも、王侯貴族の檻にいたこともあった。最後のときには、トリゴナルKの筒状の檻にいた。
この世界のどんな生物よりも巨大だというのに逃げだすこともなく、彼は柔和に人間の与えた環境を享受していた。長い首を、彼にとっては決して広くはないガラスの中でうごかし、各階層で行き来する人々を見守っていたという。
ガラスの前で、あまりにも高いその首を見上げたとき、ラケルタは何も思いださなかった。だが、彼はラケルタをみつけた。しかし鳴き声をあげたりはしなかった。彼は静かな生き物だった――まだそんなに大きくはなかった昔から。
長い首を折り曲げて、大きな眼を少女のまえでうごかし、何かを訴えるようにひたすら少女をみつめた。周囲の大人たちは驚いた。いつも大人しい〈最後の竜〉が、そんなに強い意思を見せることは一度もなかったからだ。
〈竜〉はそのまま、その場に首を落としてしまった。長い首の残りが上から振ってきて、あたりじゅうが振動した。
突然の〈竜〉の死。あたりは騒然となった。
そして、それもまた、突然だった。
――ルル! ……
(わたしを待ってた)
ひらめきとともに、すべての記憶が、彼女に降りかかってきた。と同時に、前の人生においていつ何時もそばを離れなかった親友が、生きてエンジュとの再会を待ち、エンジュをひと目みて死んでいったという事実が、いまだ五歳にすぎない少女に襲いかかった。
小さい肉体は、すべてを拒絶するように、火がついたように泣きだした。それは、ラケルタの人生のいちばん古い記憶だ。
ルルが命をかけて伝えてくれたからこそ、新しい命に生まれ変わったあと、たった五年で星の子の記憶を取り戻すことができた。エンジュだったときは、大切な人を失うまで思いだせなかったのに。
探している人がいることや、争う相手がいること、それに――星神との賭け。賭けに勝たない限り、戦いはつづく。
「――ルキフェル」
星の姉妹、星神が宿命づけた敵。彼がすべてを思いだす前に彼を殺すのが、彼女の役目だった。たとえ彼女自身が望んでいなくとも、彼女はシリウスの敵。
「させない。もう彼が死ぬのを見るのは、いや。大切に思った誰かが死ぬのも」
シリウスはエンジュのころになじんだ武具を、唯一の同胞たる女にむかって放つ。四方向から、刃は切り裂く。
しかし、受けるのも四枚の刃。かきあげるように放たれた刃は、えぐろうとする刃を跳ね返す。鋭利な金属と金属が衝突する、きん、という音が耳を突いた。
「このときを待っていた」
赤い瞳のルキフェルは、にっと口角をあげる。「このときだけ!」
同じ星神を母にもつ姉妹でありながら、ルキフェルとシリウスはまるで性質がちがう。目の前のものに心を寄せるシリウス、刹那を愛しそこに何もかもを捧げるルキフェル。正反対だからこそ、星神は彼らに敵対を運命づけた。約束を、果たさせぬために。賭けで星の子を縛り、人のあいだをめぐりつづけるために。
(神さまは、なんてむごい)
いつまで。
いつまで舞いつづければいい。
鋼鉄の糸が、交差する。
(いえ、わかっている。あれはわたしの勝手な願いだ。神さまは、わたしに希望を与えた!)
舞い飛ぶ八本の糸が、ふたりのあいだを行き交い、雪のように、風のようにきらめく。
埒があかない。どちらも決して退くことはないのだから。
ラケルタは激しく糸を戦わせ、舞うように戦いながら、高速エレベータ乗り場を振り返った。ガラスドームの中には、市警察の人々とサイレとイヴがいる。ガラスに手をぺたりとつけて、固唾をのんでこちらを見守っている。
気を逸らした瞬間、シファの眼が獣のように赤く光った。
「だめっ!」
ラケルタはシファの進行方向に飛びこんでいく。間に合わない。回りこめない。それなら――反転。上へ!
アルバ・サイフの鋼、失われた高度文明の名残りよ。何もかもを切れるというのなら、今こそ切れ。
右足首と左足首で、弧を描く。空を切る。切ったのは――強化ガラスの外壁、三角錐(トリゴナル)の頂点近く。あの日、ラケルタの手を離れた赤い風船がとどまっていた場所。
音もなく、ガラスはひらかれた。そして、その破片が、シファの頭上へと落下する。シファはすばやく反転、自らのアルバ・サイフを無数の破片に叩きつけた。切り裂かれたガラスは、ピアノの鍵盤を叩きつけるようなけたたましい音をたてて飛び散った。
「シリウス――!」
三角錐(トリゴナル)の外へ、ふたりの星の子が飛びだした。
「――シファさん」
「!」
ガラスの外で待っていたのは、ジュピター・パンタグリュエル。
外壁の外、急勾配なガラスの上に腰かけ、彼はこの瞬間を待っていた。
少年は静かな笑みで、獣じみた眼の女を迎え、その首に抱きついた。
「僕とデートしてください」
ジュピターの背丈は、女より低い。しかし、急勾配の外壁上で体重をかけられれば、均衡を崩すのはたやすい。
少年は女を抱きしめたまま、ガラスの上を止めるものもなく転がり落ちていく。
ジュピターを外に出したのは、ほかならぬラケルタだ。ラケルタのアルバ・サイフと、トリゴナルKのセキュリティシステムをハッキングできるイヴの〈妖精さん〉がいて、初めて彼を強化ガラスの外に出すことができた。葬送エリア以外からガラスの外に出る、久しぶりの人類だ。
もっとも、これも一種の葬送なのだけれど――落ちていく先、トリゴナル内部の第六階層の高さに待つのは、〈毒の海〉だ。
まわりまわって落ちていく女の瞳は、その海と同じ色をしていた。その海の中では人類は生命を維持することができず、それゆえに〈毒の海〉は人類をトリゴナルの中へ追いこんだ。それは、星の子の心をもつ人間とて、同じ。
