彼の帝国は栄えた。彼に仇なす者は消えた。
それでも、彼の運命は曲げられない。彼の星が、エンジュには見えない。
焦燥とともにエンジュを支配するのは、またしても異和感だった。
これではない、という思いが、日々募った。一度はアルキスのそばで異和感は消えたと思った。異和感に苛まれた日々が幻のようだった。しかしその考えこそ幻だった。ひとたび蘇った感覚は、絶えずエンジュを苛んだ。
何かを見落としている。このままでは――望みは叶わない。
たとえアルキスの星を見いだし、アルキスの運命を曲げられたとしても。帝国の繁栄が永遠につづいたとしても。今のエンジュは本当ではないのだと、自分のなかの何かが訴えてくる。
静かで平穏な日々。樹上城の一角で、ときおりマリオンとすれちがう一瞬だけが、緊張感のある数少ないひとときだった。
マリオンは金の瞳を細める。視線は交わらない。樹上城での安寧を与えられた唯一の王女。その代償はティンダルの滅亡。
エンジュは思う。
この安寧が、マリオンが求めたものなのだろうか?
――逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、もっと強くなりなさい。強くなったあなたを――わたしが殺すわ。
それで、終わりにしてあげる、マリオンはそう告げた。
そのマリオンが、穏やかな日常のために行動する? エンジュが本当でない今、きっとマリオンも本当ではないのだろう。それだけはわかる。けれど、それ以外のことは、何ひとつわからない。
エンジュはただ、アルキスの命令を聞き、夢の庭で星をうごかし、マリオンと無言ですれちがうだけの日々をすごした。
樹上城の安寧は、目覚めていても眠っているのと変わらない日々を、エンジュにもたらした。
次に自分の呼吸を感じたのは――目の前で、アルキスが崩れ落ちたときである。
少女は夢をみていた。
そのころには、歌をうたわなくとも、〈星々の庭〉の夢に入ることができるようになっていた。平穏のあまり、日に日に夢とうつつの境が曖昧になっていた。
いつにない不穏な物音で夢から抜け出たとき、少女はしばらく現実に帰れなかった。
しかし、寝床の外で崩れ落ちたアルキスを見たとき、その背後にマリオンを見たとき、のみこんだ息が全身に行き渡るのを感じた。
「――あなたが悪いのよ。ちっとも思いださないから」
「マリ、オン」
それは、朝方のことだった。あの金色の髪と赤い瞳が、アルキスの寝室のなかに立っていて、灰色の光を浴びていた。
うすもやのかかっていた視界が、一挙に晴れた。床にこぼれ落ちた血潮と、マリオンの手足からのびた刃と、倒れ伏したアルキス。
「もう、終わりにしましょう」
自分のからだが冷えていく感覚と同時に、眼の奥で何かがあかぐろく点滅した。
「マリオン――!」
「エンジュ、アルバ・サイフはどうしたの? あなたティンダルの戦士ではなかった?」
マリオンは憐れむように言った。
エンジュは寝床を飛びだす。ティンダルの武具アルバ・サイフは、メサウィラの王妃になった日からしまいこんだきりだった。
引っぱりだしたそれを手足にまとい、少女は駆けだそうとした。が、何かに足をとられて、その場に転倒した。まさに自分の足にまとったその武具が、少女の足に絡まっていた。
その一部始終を、マリオンは見ていた。
「もういいわ。もう待てない」
心からつまらなそうに、吐き捨てた。
「どちらにしても、あなたの負け。私は勝った。何ひとつ、おもしろくはないけれど。先に行くわね、シリウス」
「ルキフェル」
その瞬間、その名前がエンジュの口を突いて出た。〈ルキフェル〉。たしかにマリオンのことをそう呼んだ。
物音を聞きつけて、兵士たちが部屋に入ってくる。血にまみれた刃と手足をしたマリオンの姿に、兵士たちは即座に判断を下した。マリオン――ルキフェルはほほえみ、足どりもゆるやかに兵士たちのもとへむかう。
「待って!」
エンジュはとっさに叫んだ。
金のたてがみをもつ女は振り返り、そして何も言わなかった。女は、兵士たちの槍の前に身を投げだした。
メサウィラ帝国は、帝王と王妃と王女を一度に失った。
帝王アルキスは、妹のマリオン王女に殺された。
それは、現場を目撃した兵士たちの証言によって明らかだったが、〈運命を曲げ、従わせる者〉アルキスを支え、帝国の繁栄の一因にもなったとされる王妃が、帝王が殺害されると同時に姿を消したため、王妃も関与したのだとささやかれ、エンジュに追っ手がかかった。だが、その行方は杳として知れなかった。
帝国を継いだのは、追放されていたアルキスの兄弟姉妹のひとりだった。しかし、メサウィラ最大の繁栄をもたらしたアルキスの方策を知る者はおらず、残っているのはアルキスという頭をなくした星博士やその膨大な記録ばかりで、それをどのように活かして帝国を運営していたかは明らかではなく、ただ積み重なっていく記録にのみこまれるようにして、メサウィラは静かに衰退していった。
大樹に寄生することで成り立っていた樹上城も、アルキスから三代あとの帝王の治世において、倒壊した。
城の老朽化に気づいていた帝王一族は、運命の日を前に城を出たが、繁栄の本拠地たる樹上城を失ったメサウィラが、再び往年の繁栄を取り戻すことはなかった。
しばらくは樹上城の足もとで帝国を再建していた一族は、〈毒の海〉の拡張と〈恵まれた中洲〉の縮小によって、その地を去ることを余儀なくされ、やがて樹上城の跡地は水色の海の下に沈んだのである。
その人は、眠りについていた。
棺におさめられ、しかるべき処置を施されたその人は、不思議なほど安らかだった。少女は、生前にこの人のこんな表情を見たことがなかった。夢の中で出会った、少年時代の彼を除いては。
ほしかったものはこれかもしれない、とも少女は思った。この人が生きてそばにいるあいだ、一度も手に入れることができなかったもの。
頬に触れる。
(冷たい)
この冷たさを、彼女は知っていた。自分が殺した人々が折り重なる戦場で。あるいは、彼によって滅ぼされた故郷で。いや、それよりももっと前に。
「わたしは……」
この冷たさを、できれば忘れていたかった。だが、忘れたままでは、自分が何なのかもわからない。
むしろ、この冷たさの記憶の中に、自分自身がいる。それはきっと、少女が少女としてすごしてきた生涯のはじまりよりも、ずっと遠い昔のこと。
この人は、あっというまに冷たくなった。けれどその人は、少しずつ……本当に時間をかけて、少しずつ冷たくなっていったのだった。
「わたしはシリウス。星の子ども」
それはそうだ。でも、そうではない。求めている答えは、それではない。
「わたしは、……誰?」
きみ は だれ?
少女は、はっと息を吸いこんだ。
――きみは誰? ……
「……わたしは、あなたの言葉から生まれたの」
口を突いて出た言葉に、涙がこぼれた。
あとからあとから、涙が滴り落ちて、眠りについた青年の頬を濡らしていった。少女は指先で拭いとる。だが、拭きとった端から、どんどん涙が滴っていく。
哀しさと悲しさが、少女を動かした。けれど同時に、奥深い場所には喜びがあるのを少女は知っていた。これだ。これがそうだったのだ。
これではない、を重ねてきた、答えがここにある。
答えをみつけたときには、この人の命は失われてしまったけれど。
「大丈夫。まだ終わってなんかいない」
少女は、かたく閉ざされた青年の眼に語りかける。「またいずれ、わたしたちは会う」
次こそはきっと思いだすから、とひとりごち、少女は顔を近づける。頬と頬を触れあわせて、彼の冷たさを感じた。それから、唇でそっと触れた。
「……こんなに早くいなくなってしまうなら、もっと早く何でもあげればよかった」
唇を頬から離し、熱もなく眠る唇に近寄せた。
「わたしはもう、歌はいらない」
――あなたに、あげる。……
