08. 運命を曲げ、従わせる者 - 6/8

 ティンダルで暮らしていたころの、得体のしれない異和感。
 ティンダルは、少女が生涯の大半をすごした場所だから、強烈に覚えている。それと同時に、いつもどうしようもない焦燥がからだを焼いていた。異和感を放置したままでは、少女は何ごとにも力を尽くすことができず、そうして最初に心を寄せた少年を失った。
 ティンダルから遠く離れた今でも思う。あのときマリオンに勝っていたら、フリッツと婚礼を挙げるのが自分だったら、ティンダルは滅びずにすんだだろうか? ティンダルは滅びる運命にはなく、スエンはエンジュに〈星々の庭の歌〉を伝えることもなく、エンジュがあの歌をマリオンに教えてしまうこともなく。けれど、そうだとしたら、目の前の人はどうなっていただろう。今も星の宿命と戦いながら、ストリキオの言葉だけを頼りに〈星々の庭〉を探していただろうか。
 青年が声を放って笑ったとき、
(かわいそうに)
 と、少女は思った。ティンダルを滅ぼしたのはこの人だ。それでも、そうとしか思えない。
(あなたが望むなら、なんだってしてあげる。でも)
 胸を、かすかな異和感が、針のように刺してくる。それは、見過ごそうと思えば見過ごせるような痛みだ。
 けれど、それはある。そして持続している。痛みは存在するのだと、目を逸らそうとするエンジュに訴えかけてくる。
 でも、エンジュにはどうしようもなかった。目の前の人が望むことを実行するしか。〈星々の庭の歌〉をうたうことが、夢に入る以外の意味をもつかどうかなどわかりはしない。
 ――目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある。
 スエンが言ったのは、それだけだ。それと、めったなことでは口にしてはいけないということ、決して忘れてはならないということ。歌についての説明はそれだけ。
 エンジュはこの歌をうたえる最後のひとりだ。だから、忘れてはならないというのはわかる。けれど、口にしてはいけないというのは、何を意味していたのだろう。それが、アルキスとストリキオがいう「運命を曲げる」何かだというのか。アルキスはその目的のためだけに、夢のなかでエンジュを待っていたというのか。
(そんなことのために、わたしはここまで来たんじゃない)
 エンジュの中で何かが叫び、またそれが針となって刺さる。しかし、それでもエンジュはアルキスの手を離さなかった。ただ、哀れむように、運命に一生を縛られた男をみつめていた。

 星々の光をたたえた水面の上に、ふたりは降り立つ。
 かたわらの青年は、おそるおそる水面に足をのばし、そこに輪が描かれるのを見届けた。
「――ここは?」
「ここがそうでしょう」
 問いかけに、エンジュは答えた。
「〈星々の庭〉には、門はなかった。あれほど長いあいだ、夢の中を探していたのに。では、そなたと初めて出会ったときに見た、あの門は?」
「わかりません。わたしはすべてを知っているわけではないですから。〈星々の庭の歌〉がなんなのかも、スエンには教えてもらえなかった」
 スエンの名前を口にすると、懐かしさと悲しさが押し寄せて、エンジュは目をぬぐった。アルキスに見られたくなくて、顔を逸らす。
 アルキスは気づきもせず、〈星々の庭〉をきょろきょろと見まわしていた。当然だ。ここは、彼が願った場所なのだから。エンジュのことを気にかける暇などない。
 だが不思議と、足もとにひろがる透明な水と、その奥底でまたたく星々をみていると、エンジュの心は安らいだ。不穏な感情など、最初から存在しなかったような気がしてくる。きっと、自分にとっても、ここは帰る場所なのではないか、とエンジュは思った。
 ティンダルでの異和感とも、マリオンやアルキスへのうずまく思いとも、樹上城での退屈な平穏ともちがうもの。無条件でここにいることが許されている場所。
「エンジュ、行こう。まだ先があるはずだ」
「はい」
 エンジュはうなずいた。握った手に力をこめる青年に、少女も応えた。この先の世界を、エンジュは知らない。
 それでも、
(アルキスにあげる。あげられるものは、全部)
 ザイウスにはあげられなかった。ユーダにも、フリッツにも。だからエンジュはためらわない。
 与えられたあの歌を、彼のためにうたう。
 あ、と思うまに、静かな水音が響く。足もとの水面の中へ、ふたりは落ちていった。水はまるで意思をもつかのように、ゆっくりと青年と少女を水底へと引きこんでいく。
 足がつく。けれどそこはまだ、水の底ではなかった。上にも、満天の星空。上を見ても、下を見ても、星で満ちていた。どちらが水中で、どちらが空なのか。どちらが本物の星で、どちらが鏡像なのか。
 答えは決まっている。星は天にあるものだ。だとしたら、この水のなかに漂っている星はなんだろう。エンジュは手をのばそうとした。
 が、その手はアルキスに握られており、ふいに強く引っぱられた。振り返ると、青年はひどく苦しげで、気泡が口から立ちのぼっている。
「落ちついて。呼吸できます」
 アルキスは大きく息を吸った。「夢です。アルキス」
「しかし不可解だ」
「ええ、でも……この場所をわたしは知っている気がします。わたしと一緒なら、溺れはしません。ここはわたしの場所ですから」
「ティンダルのエンジュ。おまえは何者だ」
 そうだ、この場所を知っている。でも、思いだせない。ティンダルで過ごしていた日々の強烈な異和感。それはあの場所が、この場所ではなかったからかもしれない。
 エンジュは足下のトカゲを見やる。夢の中さえ一緒についてくるこのトカゲは、エンジュが何者なのかを知っているのだろうか。エンジュがどこから来て、どこに帰るべきものなのかを。けれど、ルルはいつものように、足下で悠然と寝そべっている。
「ここで何ができる?」
 再びアルキスが問う。
「わかりません……でも」
 エンジュは頭上を指さした。「あれが星で、これは『ちがう』」
「『ちがう』?」
 はかりかねて、青年は少女の言葉をくりかえす。エンジュははるか頭上、水面の上に輝く星々を見やった。
(懐かしい)
 エンジュは自分のなかにある感情をたしかめ、自分とてのひらでつながっている男に視線を落とす。それから、足下にいる親友を。
 アルキスだけが、この場所で異質だ。彼はこの場所にいるべき人ではない。けれど、ここにいてほしい。
 今、どうするべきなのか。この場所にいる自分は。彼の願いを叶えたい自分は。
「エンジュ?」
 少女は、自分のすぐそばに浮かんでいた星へと、手をのばす。指先が小さな星をかすめ、弾いた。
 澄んだ鈴の音にも似た、かすかな響き。
「あっ」
 思いのほか勢いづいて、小さな星は水のなかを移動していく。
「待って……」
 星は弧を描いて落ちていく。淡い光の軌道が残り、星は黒い水底へと姿を消す。
 次の瞬間、頭上で大きな光が横切り、ふたりは弾かれたように顔をあげた。
 天空の星が、落ちていく。
 白く燃え、今にも燃え尽きようとし――そして消えた。
「――星が動いた」
 アルキスは勝ち誇って告げた。「ここが〈星々の庭〉だ。そなたが何者か知らないが、それはまちがいない」
 ――運命は、曲がる。……
 帝王はまた笑った。