08. 運命を曲げ、従わせる者 - 5/8

 それから、アルキスは夢の中でエンジュと会った。夢とは思えないほど、エンジュの存在ははっきりしていた。しっかりとした質感と厚みをもって、アルキスの前に現れた。
 少女は、いつも何かに苦しんでいるふうだった。何も言わなかったが、何かが少女を駆り立てている。助けを求めるように、この夢の中にやってくる。
 少女は現実に存在しているのではないかと、出会ってすぐに思った。けれど、だからといって現実にエンジュを探しだそうとは思わなかった。夢の少女と現実で会ったからといって、どうなるというのか。死と滅びの運命から逃れられるわけではない。それよりも、少女がもつはずの鍵で〈星々の庭〉の門をひらく。あたうる限りすみやかに。
 しかし、少年のアルキスはそうは考えない。最初に扉の話をして以来、少年は二度とそれを口にすることはなかった。少年はただ少女を迎え入れ、少女と果樹園で静かなときをすごす。ひたすら、そのくりかえしだ。現実のアルキスがどんなに焦れても、夢のアルキスは気にすることはない。高い塀が途切れる場所を求めて歩きまわった日々の焦燥が、ふたたび目覚めたアルキスを苛んだ。
 不可思議な充足感とともに覚醒したにもかかわらず、次の瞬間それが焦燥に変わる。
 ――悪夢ですか。
 前夜をともにすごした女が、窓辺の日ざしを背負いながら尋ねた。女は獅子のたてがみともいわれる黄金の髪。樹上城で帝王によって与えられる安寧とは、古来、帝王の寝床で仕えることを意味している。
 ――悪夢だ。
 たしかに、そうにはちがいない。アルキスは短く答える。今は一糸まとわぬマリオンのからだは、ティンダルを滅ぼした日、同胞の血で赤く染まっていたという。
 ――イリルアンへ行け。万事そなたにまかせる。
 ――かしこまりました。お兄さま。
 虫唾がはしった。女はほほえんで、するりとかたわらを通り抜けた。すべらかな背をむけたまま、
 ――ひとつだけ、お耳に入れたき儀がございます。
 聞きたくない。さっさといなくなってほしい。しかし、帝王の言うべきことではなかった。アルキスは発言をうながした。
 ――ザイウス・パンタグリュエル。
 ――ザイウスが、なんだ。
 青年王ははっきりと不機嫌になる。
 ――女をひとり、自邸にかくまっていたとか。
 ――妹のセレステだろう。
 ――その女はパンタグリュエル邸を飛びだし、城下で大道芸人にまじって舞を披露したとか。それは、跳ね馬のごとき舞で見事なものだったと、城下の者たちは驚嘆したそうでございます。跳ね馬のごとき舞、私はそういう舞をよく知っております。
 ――だから何か。
 アルキスはいらだった。何もかもを不吉に彩るこの妹を、見ないですむ場所へ、早くやってしまいたかった。
 女の蠱惑的な唇が、うごく。
 ――ティンダル。……
 頭の中で何かが明滅する。ザイウスを呼べ、とアルキスは命じた。

 どれほどの怒りと失望に浸されても、夢の少年アルキスはほほえみを絶やさない。少年らしい粗暴さで、グスキアの野を駆けめぐっていたアルキスの幼年期は、こんなものではなかった。むしろ、今のアルキスが求める心の平穏を、ありえない理想を、夢の少年が体現しているようだった。
「エンジュ」
 水路に映る星を手でかき、顔をあげる。なだらかな傾斜を流れていく水が、さらさらと音をたてていた。
 少女はそこにいた。悲壮な決意を両眼に秘めて。
 だが、少年は相も変わらずほほえんでいる。
「わたしは戦いに、遠くへいく」
「夢に距離は関係ないでしょう? エンジュが生きている限り、また会える」
 少年はいつも、エンジュの問いかけにとらえどころのない返事をする。
「ええ、それはそう。でも、もう二度と会えないかもしれない」
「あなたはそう思っているんだね」
「思ってる。今までのわたしは、戦っていたんじゃない。殺していただけ。今度は――戦いなの。だから、もしまた会えたら……あなたの名前を、教えて」
 あなたのことが知りたい――エンジュはそう告げた。
 少年の表情は、何ひとつ変わらなかった。青年の心だけが、激しく動揺した。知られたくない。自分がメサウィラ帝王アルキスだと。
 けれど、エンジュが戦いから帰ってこなければいい、などとは思えなかった。
「あなたとは、また会う。あなたはわたしを知るでしょう」
 事実は失望を誘うものだとしても。彼女はやってくるのだろう。事実を知った彼女は、この庭を去っていくだろうか。
「わたしはそう祈ってる。あなたも、祈っていて」
 次に彼女がこの庭に現れたら――決して、彼女を離すまい。そう考えたのは、青年のアルキスだけではなかった。

 ザイウスが死んだ。マリオンが帰還した。エンジュにまみえたのは、その夜だった。
 マリオンからザイウスが戦死したという一報を受けたアルキスは、樹上城を下りて馬に飛びのった。ただ、胸のうちをどうしようもなく吹き荒れる嵐から逃れるために、生涯でもっともやさしい思い出のつまったグスキアへと走っていった。
 ところが、これは逆効果になった。やさしい思い出とは、ザイウスとの思い出だ。ザイウスは、アルキスが滅ぼしたティンダルの娘をかくまうという最悪のかたちで、帝王の長年の友情に報いた。そして男は、その娘の刃のまえに、自殺同然の死を遂げたという。
 ティンダルが生きていた。〈星々の庭の鍵〉の謎を知る一族、アルキスが過失によって滅亡させた村の娘。それはまちがいなく、ひとつの希望だった。しかしそれと同時に、その娘のためにザイウスはアルキスを裏切ったのであり、その娘のために親友は死んだ。が、話はそれだけでは終わらなかった。
 グスキアの野にアルキスがつくらせた、広大な果樹園。その中心部の塀の前で、アルキスは乗りつぶした馬を解き放った。夢の庭で、やさしく柔和な少年がいつまでも満足げに彷徨していたように、アルキスもまたつくりものの庭をさまよう。
 塀の中の庭園に、ザイウスの妹セレステが待っていた。今や、やさしい思い出を共有する唯一の存在となった少女は、ザイウス同様、裏切り者でもある。しかし、彼女は裏切りを恥じる様子もなく、アルキスにまっすぐな瞳をむけた。
 ――兄は、帝王を裏切ったのではありません。
 この娘は、決してみずからに恥じる行いをしない。この物怖じしない妹が目を伏せるのを、アルキスは一度も見たことがなかった。
 ――兄がとるべき道は、ひとつしか残っていなかったのです。兄は彼女に心を捧げたのですから。
 幼いころから近くにいて、常に強い憧れをもってアルキスのあとを追ってきた娘の瞳には、今も憧れが生きていた。以前のアルキスには面はゆく快い熱であり、光だったが、今のアルキスには直視できないものだった。
 その瞳のままで、セレステは告げる。

 ――兄が血と心を捧げたその人の名前は、ティンダルのエンジュ。

 アルキスは、ただちに地方貴族に嫁ぐようセレステに命じた。それが、兄とともに帝王を裏切った代償だった。ただし、パンタグリュエル家の名を剥奪することはせず、その家名を受け継いでいくことを許した。それが、セレステがもたらした僥倖と、長年の愛情と忠節への返礼だった。
 セレステを下がらせてから、生まれ育ったグスキア館で青年は眠った。何をどう考えればいいのか、まるでわからなかった。ただ、その人に会いたかった。その人の中にだけ、答えがあるかのように、青年には思えた。
 夢の果樹園は、いつものように凪いでいた。少年の心も、また。青年の心がどんな嵐に見舞われていようと、夢の少年は青年の感情を裏切る。少年アルキスは、いつものように不可思議な充足感とともに水路の横にたたずんでいた。
 青年の心だけが、逸る。逸ってもからだはうごかない。夢の王国の帝王は少年だ。少年は、水面のゆらぎを心楽しくみつめている。
 足音が聞こえて、アルキスは顔をあげた。
「また会えたね、エンジュ」
 と、無邪気にかけた声には、万感がこもっていた。青年にとっても、少年にとっても。
 しかしエンジュのほうは、常とはちがった。アルキスは声をかけたあとになって、エンジュと再会したら自分の名前を伝えなければいけないことを思いだした。
 それから、彼女がザイウスを殺したことも。はっとしたとたんに、少女の足がもつれ、からだが傾いだ。アルキスは何もかもを忘れて駆けだした。少年のからだが、青年の心に同調した。
 倒れこんだ少女を、少年は受けとめた。
 少女の重みを、このまま離さない。決意に似た感情がからだを貫いたとき、少女は少年の首にすがりついた。溺れてしまいそうな手で。
 冷まして、冷まして、と少女は二度言った。

 夢かうつつか。自分は少年なのか青年なのか。何もわからぬままに、文字どおり無我夢中だった。
 少女は舞う。舞いつづける。この姿をザイウスがみていたのかもしれないと思うと、アルキスは自分が何に憤っていたのかわからなくなった。ティンダルのエンジュへの怒りか。ザイウスへの怒りか。けれど目の前で舞う娘に、手をのばさずにはいられなかった。
 ここにいて、とこいねがったのは、少年か青年か。それだけでいいと思った。けれどこの夢から醒めたとき、またうつつが迫ってくるだろうことを、どこかで理解していた。
 歌よ、と少女はささやく。あなたの中から歌がきこえる。歌をきかせて。少女は明らかに、自分が何をいっているのかわかっていないようだった。ただそう何度も口走った。うわごとのように。
 歌うのはあなただと、アルキスは答える。自分は歌うことができない。自分の歌を、――は受け入れない。
 歌ってください、わが〈王〉。そうすれば……。

「――そうすれば?」
 今、少女はメサウィラの帝王一族の装束を着て、樹上城の頂上に立っていた。巨木の梢に囲いこまれた円形の天空の下で。足もとには、彼女のトカゲが寝そべって、とくだん興味もないという目つきでいる。
「〈星々の庭〉の門が開く」
 長い物語の果てに、アルキスは一瞬、逡巡した。エンジュは小さく笑った。
「われらが〈王〉が、ついに星のくびきを離れ、運命を曲げるときが来たのだ」
 青年と少女のかたわらで、星見の男はひとり、興奮を隠しきれない様子でつぶやいた。
 王女マリオンによってもたらされた〈星々の庭の歌〉。彼女自身によって歌われたそれは、何ももたらしはしなかった。アルキス自身も歌ってはみたが、何も起こらなかった。マリオンとアルキスでは歌い慣れていないせいではと考えて、宮廷歌手に再現させてみたが、同じことだった。
「……ストリキオ」
 円形の空の下の孤独な玉座で、かたわらにかつていた親友の姿もなく、アルキスはひざまずく陰気な男を見やった。内なる復讐と野望のために帝王を利用しようとする男。それゆえに、この男は信頼できる。何も言わないということは言うことができないということだと、すでに長くなりつつあるこの男との関係の中で理解していた。
 王女マリオン以降、帝王の兄弟姉妹はめぼしい成果をあげられずにいる。ある者は探索のさなかに命を落とし、またある者は帝王の命令を遂行することができなければ追放の身の上すら許されないと憶断して姿をくらました。
 別のやりかたを模索しだしたころ、おりしもアルキスはあの夢をみはじめた。そして、彼女を手に入れ、ストリキオは力強くうなずいた。

〈神々の御世、星々の下なる丘にて
 星の子墜つ……〉

 民によって〈運命を導く舞手〉という名を与えられた彼女の歌は、アルキスの寝室のなかで驚くほどのびやかに響いた。
 ティンダルの〈謡い家〉と呼ばれる住処で暮らしていた人々の歌を愛し、ただそれに耳を傾けるためだけに夜な夜なそこに通ったと、彼女は語った。
 夢のアルキスに〈歌〉を感じたと彼女は言ったが、〈歌〉を抱いて生まれたのはまちがいなく彼女のほうだ。暗闇のなかで、光を身にまとった彼女に手をとられたとき、アルキスは長年探したものをいま得たのだと、完全に理解した。
 知らず、笑いがもれた。声をあげて、笑わずにはいられなかった。うつくしい幼年期も、大切な者たちも、他の多くの命をも失い、ようやく獲得した。
「私の運命を導いてくれ。私の運命を変えてくれ――エンジュ」
 少女はしっかりとアルキスの手を握りながら、その笑みはさびしげだった。
「笑え」
 自分は高らかに笑いながら、アルキスは言い放つ。「そなたも笑え」
 少女はこたえなかった。ただ、周囲の暗闇に漂う無数の星々を、その深い藍色の瞳に映し、少女は青年をみつめていた。ふたりはそのまま、ゆるやかに落ちていった。