08. 運命を曲げ、従わせる者 - 4/8

〈毒の海〉に囲われた状況を阻止するため、ひたすらに研究をつづけてきたアルキスは、ストリキオの言葉をしばし受け入れられなかった。
 眼前にあるすべてのものが、星に運命を支配されている。〈毒の海〉もまた、星々がその運命を決めているもの。そこに、大いなる希望をみいだして、アルキスは星見に問いかけた。その意図は、まるでちがう方向にねじまげられ、しかもアルキスを支配した。
 自分の死。
 アルキスは、そんなことに思いをはせたことはない。一度たりとも。グスキアでの幸福な日々はもちろん、樹上城に入り、無数の人々に死をもたらすようになってからも。アルキスはまだ若く、病を知らなかった。戦場においてさえ、親友ザイウスをはじめとする屈強な兵士たちに周囲を守られ、死は身近なものとは言いがたかった。だからこそ、心やさしいグスキアの少年が、帝王の玉座を手に入れてすぐ人々に死をもたらす存在へと変貌を遂げることができたのかもしれない。
 あるいは、もののたとえか。アルキスはそうも思おうとした。だが、ストリキオの星見は、詩のかたちをとらない。星々が歌う事実を、そのとおりに伝えるだけだ。死といえば、死でしかない。
 生まれて初めての苦悶。
 食事もとらずに思い悩むアルキスを、ザイウスとセレステが見守っていた。二人が自分を案ずるのを見て、アルキスは一瞬救われる思いがするのだったが、少し気持ちが軽くなるだけで、二人は答えをもっているわけではない。答えをもつのはストリキオだけ。
 三日後に、アルキスは再びストリキオの前に立った。星々が見下ろす円形の天の下、メサウィラの歴史を背負う盲目の男と対峙する。それは、己の運命を直視することでもあった。
 ――私は死ぬのか。メサウィラに繁栄をもたらしたあとで、死ぬのか。
 ――人は誰もが死にます。その運命を逃れられる者は、誰ひとりとしておりませぬ。あなたさまも例外ではない。
 ――そういう話ではない。私は道半ばにして死ぬのか、ということだ。
 ――さようでございます。それがあなたさまの星なのですから。
 ストリキオはその日も、見えない目で何もかも見通しているかのように言い切った。
 ――あなたさまは若くして死にましょう。よいものを人々にもたらすことができましょう。一族は栄え、メサウィラは花の盛りを迎えるでしょう。しかしその花は、あなたさまと運命をともにするでしょう。
 ――いやだと言ったら? ……
 青年は男を見据えた。光のない双眸の中心を探すように。男の眼もまた、青年の存在を探すようにかすかにうごいた。
 アルキスは男の答えを待たなかった。アルキスは答えをもっていた。そのことに、口をひらいた瞬間に気がついた。
 ――星が万物を司るのだと、おまえは言った。
 ――たしかに。
 ――私という星の運命は、春をもたらす代わりに滅びる〈冬の王〉だと。
 ――申しました。
 ――私という星が、そのようにめぐっていく。
 ――はい。
 ――ならば、星がうごきを変えたなら?
 ――〈王〉。
 ――星神が私の定めを決めると。おまえはそう言ったはず。ならば、星神が星々を意のままにうごかす、その方法があるはずだ。
 ――〈王〉よ、あなたは――
 運命を曲げ、従わせなさるか。……
 そのときだった。二人の男を見下ろす空が、ひとつの星を抱いた。夕刻の訪れだった。
 星見の男は、しばし星を眺め、ややあってふたたびアルキスに向きなおり、
 ――星見は、メサウィラの帝王に星を与えるためにいるのです。
 と、告げた。
 それは、長いあいだ沈黙しつづけた盲目の男にひらめいた、野心だった。
 星見は語る。いにしえより、星見の一族に伝わってきた秘密があると。星見たる者、それを口外することは許されない。しかし同時に、必ずやそれを後世に伝えていかなければならない。それゆえに、先代の星見から伝承を受けとった星見は、後継者を得ることなしに死ぬことは許されない。
 ――それをおまえは私に語るというのか。
 満天に星をたたえた円形の天蓋の下で、盲目の男は変わらぬまなざしでうなずく。
 ――私の一族は、今はもうありませぬ。私が秘密の遵守を誓った人々もです。
 復讐。それがこの物静かな男の原動力であることを、アルキスは初めて知った。しかし、そうであるならば、その目的のためであれば男は何をするのもいとわないだろう。
 そう、星の巡りを変えることも。アルキスは確信し、自分の死をつきつけられてから初めて笑った。一方、ストリキオは笑わなかった。
 ――星見ストリキオよ。訊こう。星の運命を曲げ、従わせるには、どうすればよいか。
 ――〈星々の庭〉にございます。
 ――何だ、それは? この樹上城の頂上のような場所か。
 ――たしかにここも〈星々の庭〉といえましょう。しかし、それはこの世界にひとつしか存在しない、あるいは現には存在しない〈庭〉なのです。
 ――それを探せと。
 ――はい。それが必ずや、あなたさまの運命を曲げることにつながりましょう。いま申しあげられるのはここまで。なぜなら……。
 ――私自身がそれをみつけないと意味がない。
 珍しく、ストリキオは笑みをもらしたようにみえた。盲目の男が、初めて自分を年若い青年として扱ったことに気づいて、アルキスはなぜか愉快になった。愉快になった自分に気づいたことが、また愉快だった。
 思えば自分は、少年のころに運命によって奪い去られて以来、年齢相応の生活というものから遠ざかっていた。それをどうとも思わなかったことが、また不幸なことのようにアルキスには思えた。
 だが、星のくびきから脱しようとしている今、再び何がしかの幸福が戻ってきた。だとすれば、星の運命とは、抵抗すべきもの。
 ――〈運命を曲げ、従わせる者〉に、私はなろう。

 そのころだった。アルキスは同じ夢を頻繁にみるようになった。
 アルキスはまだ少年で、うつくしい庭園の中にいた。最初はそれをグスキアの夢なのだと思っていた。誰からも奪うことなく、周囲にやさしくされ、周囲にやさしくしていられた時代。幼年期懐かしさにみている夢なのだと、目覚めたあと自分をあざ笑った。
 しかし、何度も同じ場所を訪れるにつれ、アルキスはそこがグスキアではないことに気づきはじめた。どこまでも続く果樹園。それは、グスキア館の小さな庭とは似ても似つかなかった。たしかに二、三の果樹が植えられていて、季節がやってくるとザイウスと競って木に登ったものだが、その夢の果樹は無限とも思えるほどに生い茂り、アルキスはどこまでも果樹園の中を歩いていく。
 やがて、夢のなかのアルキスは、自分がアルキスであることを忘れた。目覚めると、またあの夢をみていたのだと思い起こすのだったが、夢をみているあいだは決して思いだせなかった。思いだそうという気にもならず、その果樹園を守ることが自分のただひとつの役割なのだと、少年は確信していた。
 少年は誰かを待っていた。日々、果樹の合間をめぐり歩き、さらさらという音をたてて流れていく水路の水面に手をくぐらせながら、ここに本来いるはずの人に思いを馳せた。
 ――この庭は〈王〉のもの。ここを訪れる人は、わが〈王〉ただひとり。
 守りつづけていれば、いつかここに〈王〉はやってくる。その瞬間だけのために自分は生きている。
 いや、生きてなどいない、と目覚めた青年は否定する。夢のなかの、まだ幼さのある自分は、生きているのではない。
 ――勘ちがいするな。それはおまえの人生ではない。
 断固として夢のなかの思いを拒否しながら、アルキスは胸に通ってくる感覚をいぶかしんでいた。どこまでも幸福。けれど待つことはさびしい。けれど待つことは幸福でもある。〈王〉は必ず存在している。この庭がある限り、〈王〉はきっとここにやってくる。あたたかな希望が、胸に宿っていた。これは自分自身ではない。そのはずなのに。
 ――その日のために。その瞬間のために。
 アルキスはいつしか、夢の少年に同化していた。アルキスの追い求めるものが、少年の追い求めるものなのだという、確固たる手ざわりがあった。
 ――〈王〉とは誰なのか。
 うつつには〈王〉は自分だ。しかし、それはかりそめ。春をもたらし滅びる〈冬の王〉。永遠の〈王〉ではない、ほんの一刹那の栄光。
 ――本物の〈王〉とは。……
 朝に近づき、夢が浅くなるにしたがって、アルキスの渇望がうごめきだした。本物の〈王〉がいるというのなら、その人物の星と自分の星をとりかえてやる。その運命を自分のものとし、残酷な〈冬の王〉の運命を、その人物に与えてやる。――半ば叫ぶように。アルキスはいまだ暗い夜のうちに覚醒する。
 しかし、夢のなかのアルキスは、どこまでもやさしく柔和に、うつくしい庭をへめぐり歩く。夢のなかで、アルキスは夢をみている。いつかその人が現れることを。
 深い夢と浅い夢をくりかえすうちに、アルキスは現実の自分と夢の自分、両方の意思をもって行動するようになった。
 この夢には何かある。〈王〉とは、夢の秘密のことではないのか。この庭は、ただの果樹園ではない。果樹園以外にも何かあるはず。そう確信したアルキスは、夢のなかで夢をみながら、やさしい少年アルキスの足で夢のなかを探索しはじめた。
 それは、気が遠くなるような作業だった。夢のなかの自分は決して自分の意思どおりにはうごかない。ただ庭で待っているだけで満たされている、それが少年アルキスだ。いくらグスキア時代でもここまでではなかった、とアルキスは目覚めてから笑う。だが、アルキス自身であることに変わりはない少年は、やがてアルキスの意思に従って歩きだす。柔和さのままで、少年はアルキスの考えどおり果樹園をさまよい歩く。
 果樹園の中に水路がある。水路は果樹園の中を、どこまでも伸びていく。十字に交差した水路を少年は越え、流れの行く先をめざしていく。満たされた幸福のまま、水路を追いかけてどこまでも行くつもりだった少年は、やがて行く手を阻まれた。高い壁が少年の前に立ちはだかり、水路は壁の下にもぐっていってしまったからだ。
 仕方なく少年は壁沿いに歩きだした。しかし壁は終わることがなかった。そこで少年は、これが夢であり、今の自分が偽りの自分であることを思いだす。そしてまた、青年は樹上城で朝を迎える。
 少年は夢のなかを歩きつづけた。果樹園。水路。土壁。土壁は途切れることなく続く。一度はさほど頑丈でもない土壁に穴をあけてみようと試みたが、夢の少年は少しだけ壁を指先で削っただけで、それ以上の関心はもたない。壁に穴をあけるほどには、少年には渇望がない。それで再度、壁の終わりをめざして歩きつづける。
 この間、アルキスは現実に〈星々の庭〉を探しはじめた。それは夢の中にあるのか現実にあるのか、それすらもわからない。それでも、アルキスが運命を曲げ、従わせるためには、〈星々の庭〉をみつけなければならない。
 アルキスはグスキアの野の一角に、庭園を築きはじめる。それは、幼いころに世界の大半だった小さな庭とは似ても似つかない広大なものだ。帝王位について以降アルキスは何も記念碑の類いを建造していなかったので、反対する者はなかった。帝王たる者、自らの名を冠する巨大建造物のひとつやふたつは所有しているものだ。
 まずは果樹園。果てがないというわけにもいかないから、塀で範囲を決めて果樹を植えさせた。それから水路。つまりは、夢でみたものに似せた庭を。夢の果樹園と水路が〈星々の庭〉なのかどうかも、はっきりしない。けれど、アルキスの生活のなかで庭といえるものは、グスキアの小さな庭か夢の果樹園しかない。
 夢の果樹園の中心部には、高い塀がそびえている。夢の少年は、まだその内部を見ることができていない。
 夢の探索が進むよりはるかに早く、現実の果樹園は完成に近づいた。いちど植えた木も、夢の記憶と少しでもちがっていれば、何度でも植えかえさせた。頭の中にある夢の風景との誤差を埋めていくかたちで、アルキスはグスキアの果樹園をつくらせた。そうするうちに果樹園と水路が完成した。
 夢を見、うつつの庭を見て、アルキスは満足した。しかしアルキスは知っていた。高い塀に囲われた果樹園の、さらに奥にある塀。塀に囲われた内部は、いまだにがらんどうであることを。塀を乗り越えて中に入ってみたアルキスは、水路が壁の下をもぐったその先に、水路に水を流すためだけの巨大な人工池が水をたたえているのを見た。
 中に何か庭をおつくりしましょうか、と庭師たちは言う。帝王にいわれるがまま築庭したものの、職人の心は欠陥を放置しがたい。アルキスは忠実な庭師たちの希望を受け入れ、まだ見ぬ〈星々の庭〉を、彼らの技術の粋をこらして築かせた。アルキスが庭師たちに出した命令はただひとつ、その庭は「星を見る庭」であること。
 曖昧な命令に対して、庭師たちは全力を尽くした。完成した庭は美しく、その庭を訪れた者はみな感嘆とともに帝王を讃えずにはいられなかったが、アルキスはここに具現化するはずだった幻を、なおも追い求めつづけた。
 意図をもってつくった庭は、〈星々の庭〉とはならなかった。アルキスの着想は、失敗に終わったのだ。残ったのは虚脱感と、これではない、という思いだけだった。
 行きづまったアルキスに助言したのは、遠ざけていた古い臣下たちだった。父に長年仕えてきた者たちは、何かを探し求める若き帝王に、昔ながらのやりかたを提案した。
 ――私は所望する。
 メサウィラ帝王アルキスは、使者たちに告げた。
 ――〈星々の庭〉の鍵を。
 詳細は何もわからない。それゆえに、詩の文句のようにただそれだけの言葉を与えて、使者を出発させた。アルキスの戴冠とともに追放された、兄弟姉妹のもとへ。
 ――代償は、樹上城での安寧。
 獅子身中の虫をみずから招き入れるようなものだと理解していた。しかしアルキスは、兄弟姉妹がそれぞれ自分の知らない場所にいるということを重視した。〈星々の庭〉の近くにいる者がいるかもしれない。樹上城とグスキアと戦場だけで生きるアルキスにはわかりえないものを、各地に散った兄弟姉妹がもたらすかもしれない。
 成果は思いのほか早かった。奴隷として売り払われた異母妹が、使者を返してきた。
 ――一軍を与えよ。さすれば鍵を奪い、秘密を知る者すべてを葬ろう。
〈草の海〉のさなかにある戦士の村ティンダル。そこが、異母妹マリオンが鍵のありかだと知らせてきた場所だった。
 使者によれば、ティンダルは代々〈星々の庭の鍵〉を守り、受け継いできた一族なのだと、マリオンは言ったという。マリオンはティンダルに奴隷として買われながら、戦士としての才覚を示して頭角をあらわしていた。が、マリオンはためらうことなくティンダルをさしだすという。
 もちろん、アルキスもティンダルのことは知っている。〈草の海〉最強の一族と名高い。ただし特定の国にはつかず、一族全体が傭兵団を生業とし、戦によってあちらについたりこちらについたりして、とらえどころがない。アルバ・サイフといわれる特有の武具と、上質な馬のうえで舞うように戦う独特の技により、〈草の海〉中に敵はないとされた。メサウィラも、ティンダルを雇って戦ったこともあれば、ティンダルを相手に戦ったこともある。
 王女マリオンの話を持ち帰った使者によれば、ティンダルが常勝を誇るのは武具と馬のためだけではない。ティンダルは〈星々の庭の鍵〉をもち、それを思うがままに操って運命を味方につけているからなのだという。
 ――運命を味方に。
 アルキスは衝撃を受けた。運命によって動かされるばかりの自分。それに対し、運命を動かしてわがものとするティンダル。
 瞬間、ひりつくような嫉妬を、アルキスは感じた。
 マリオンの伝言を読みあげた使者に、言下に、
 ――許す。
 と、返した。

 冷静さを取り戻すのには、しばらく時を要した。
 異母妹といっても一度も会ったこともなく、しかも政敵だった女だ。マリオンという見知らぬ女が信用のおける者かどうかは、アルキスにはわからない。よって、ザイウスに一軍を預け、マリオンの指定する日時にティンダルへ向かわせることにした。
 果たして、マリオンはすぐに結果を出した。その日はティンダル一の戦士たちの婚姻の夜だったという――花嫁はマリオン自身だった。〈草の海〉のさなかにあって、深夜の襲撃などありえないとたかをくくった屈強の戦士たちは、祝いの酒に酔ったまま、新婚の床から飛びだしたマリオンによって屠られることになった。
 ザイウスは止めることができなかった。〈星々の庭の鍵〉がそれほどの力をもつなら、たしかに知る者は少ないほうがよい。ティンダルが〈星々の庭〉に精通しているという話がそのとおりなら、アルキスのためにティンダルは滅ぼさなければならない。そうザイウスは判断し、マリオンに続いた。
 だが、あまりにもたやすく殺されていく人々を前に、ザイウスは疑問を抱かざるをえなかったらしい。まだ息のある者を揺り起こし、尋ねたという。
 ――〈星々の庭の鍵〉を知っているか。
 その女は、わずかに頭を振り、息絶えたという。

 こうして、マリオンとザイウスはティンダルを滅ぼし、樹上城に帰還した。
 このときすでに、ザイウスはアルキスを裏切っていた――それは後日、判明するところとなる。
 一方マリオンは、王女として幼時以来の樹上城登城となった。
 円形の天空の下で、マリオンは歌った。

〈神々の御世、星々の下なる丘にて
 星の子墜つ……〉

 ――それは?
 ――これが〈星々の庭の鍵〉でございます。
 初めてまみえる妹姫は、言葉と挙止だけは敬意をこめて答えた。
 ――それで?
 ――それで……とは?
 燃えるような黄金の髪を、樹上城の頂上に吹く風にもてあそばれるままにして、王女マリオンはほほえみを浮かべた。
 ――その歌が〈星々の庭の鍵〉だと?
 ――帝王がお望みのものでございます。
 ――それで何が起こるというのか。
 ――わたしにはわかりかねます。しかし、これがティンダルが受け継いできた鍵です。
 ――何を隠している。
 ――帝王に隠し立てなどいたしましょうか。
 ――おまえは何を知っている。王女マリオン。
 ――私が存じておりますのは、
 妹である女は、そのままのほほえみで言った。
 ――あなたさまのお許しを得て、この鍵を知るティンダルの者を、ひとり残らず誅殺したということだけにございます。
 アルキスは言葉を失った。
 罵ることも忘れた。女は帝王の許しを得ずに退室したが、そのことにも気づかなかった。気がつけば、かたわらにストリキオとザイウスがいた。
 自分が今までためらいもなくなしてきた行為に、足もとをすくわれた。メサウィラのためという大義名分で滅ぼした幾多の国々や村々と同様、自分の希望をも蹂躙したのだ。
 ――ですが、鍵を手に入れられたことに変わりはありません。
 と、ザイウスは言った。アルキスは星見の男に視線を投げた。
 ――私が申しあげられるのは、鍵の存在まで。この先の答えは――
 ――私自身が、か。
 ――さようでございます。
 これは、絶望ではない。

 その夜である。
 アルキスは夢の果樹園に東屋をみいだした。無限に続くかと思われた果樹の林の片隅、矩形の池のかたわらに、それはあった。
 池をのぞきこむと、水底から小さな泡がしきりとのぼってくる。水が湧いていた。アルキスがつくった庭では塀の内の池から水を流させたが、本来の夢の庭では塀の外で湧いていたのだった。
 水底は深く、どこまでも続いているようにみえた。アルキスがつくることはできない、夢の秘密。アルキスは池に飛びこんで奥底を確かめたかったが、少年のアルキスはそんなことはしない。これもまた、明らかになるには時間がかかりそうだった。
 やさしく柔和な少年アルキスは、水泡のうごきをいつまでもみつめている。ひとりでも、ほほえみさえ浮かべて。心を満たすのは、根拠のない満足感。青年のアルキスには理解できない。理解できなくても、満たされている。
 ひたすらに、水をみつめている夢。
 しかし、もうひとりのアルキスは、密かに息をのむ。
 少しずつ、ほんの少しずつの変化。水にうつる光が、少しずつ色合いを変えていく。
 日が、かげってきていた。
 日が暮れるというのか。これまで一度たりともこの果樹園に夜は訪れなかったというのに。この昼間だけの庭に、星がまたたくというのか。
 は、と息をのんだのは、少年のアルキスのほうだった。青年のアルキスには、何が起こったのかわからなかった。
 足音だ。足音が近づいてくる。近づいてくる足音に、この静かで満たされた少年が、駆け寄っていく。
「――わが王」
 少年はひざまずいた。その人に対し、手をさしだして。
「お待ちしておりました」
 長年秘めていたものをおさえこむように、少年は努めて声を落として告げた。
 星の光に照らされて、暗闇のなかでその人はほのかに浮かびあがっていた。
 星を瞳に浮かべた娘が、戸惑いながらそこにたたずんでいる。けれど、少年の手を振り払うことはしなかった。
「わたしは王なんかじゃない」
「いいえ、あなたが、わが王です」
 そのとき、もうひとりのアルキスにも忽然とわかった。この娘がそれなのだと。少年のアルキスと、青年のアルキスが、待ち焦がれていた存在なのだと。
 それは理屈を超越していた。アルキスには選択権などまるで与えられなかった。
 目の前にいるまだ幼さすら残る少女に、ただ恭順の意を示すしかなかった。
「この庭を訪れるのは、わが王だけです」
 アルキスは迷うことなく断言した。それは、少年としてなのか、現実の青年としてなのか、アルキスにもわからなかった。
 どうして自分は夢をみるのか。
 この夢は何なのか。この夢がもたらそうとしているものは何か。
 何ひとつ、理解できなくとも。
 すべては、この人のもの。
 しかし、少女は青年アルキスほどにも事態を理解していないようだった。
「ならば、あなたが王では」
 と、娘は言った。
「わたしが?」
「わたしは今はじめてこの庭に来たの。だから王なんかじゃない。あなたもこの庭を訪れている。あなたが王でもおかしくない」
「わたしには庭園の門はひらけません。わたしはこの果樹園で、なすすべもなく呆然としていることしかできないのです」
 そう答えて少年は、あれを、と指さした。そこに、石づくりの門があった。当たり前の風情で現れた、錆びた鉄の門扉に、少年の中の青年は戦慄した。今の今まであれほど探していた、塀の入口。塀の内部は見ることも入ることもできず、現実につくらせた庭は、庭師たちに技術の粋を尽くさせることしかできなかった。
 少女もアルキス同様、門の存在に驚いていた。扉は少女のために現れたのに、少女は何も知らない。
 だが、門が現れたのであれば、するべきことはひとつ。
「王よ、開けてくださいますか――その扉を」
「どうして?」
 少女はそう切り返してきた。
「どうして、あなたはこの扉を開けたいの? あなたは、」
 ――あなたは、誰?
 娘は扉の前に立ち、その骨組みに触れた。こんなものはなんら問題ではないというように。むしろ問題は、少年の存在なのだというように。
「わたしは――」
 少女の納得できる答えを、すぐに返すつもりだった。けれど。
(わたしは、誰? そして、)
 ――あなたは、誰?
 自分と彼女は、どうしてここにいるのだろう? なんのために? それでもなお、自分と彼女はここにいるべきなのだという確信だけがある。
「あなたが、あなたのことを答えられないなら」
 と、少女は言った。
「わたしは、あなたをみる。あなたがみえてくるまで」

 ――ここにいる。……

 ずっと、探していた鍵が、ここにある。
 少年は少女を、まぶしくみた。
「わたしはエンジュ」
 ――わたしは、ここを訪れる。何度でも、あなたのいるこの庭へ。

(エンジュ)

 その名前を抱いて死にたいと、瞬間、思った。
 少年と青年の境界がわからなくなったまま、アルキスは樹上城の寝床で目を覚ました。目を覚ました瞬間に、自分の世界のすべて、メサウィラと〈草の海〉と、今までになぎ倒してきたあらゆるものが、胸に迫った。