少年アルキスは、メサウィラの帝王一族の末端に生まれた。
少なくとも少年は、そう信じていた。物心ついたとき、少年の周囲はとても静かで幸福だった。そばにいるのは、やさしくも厳格な大人たちと、幼友達としてつけられたザイウスという少年だった。
自分が帝王位の継承権をもって生まれてきたことは、アルキスも承知していた。しかし、アルキスが幼少期をすごしたグスキアは、現在のメサウィラの版図に比較すれば小さい、当時のメサウィラでは辺境にあり、世界には少年の周囲にいる十人ほどしか存在しなかった。石づくりのグスキア館と、周囲にあるこぢんまりとした庭園、庭園を囲む広大な沃野。それが少年アルキスの帝国であり、それ以外のことは何も知らなかった。
父と母というものは、最初から存在しなかった。誰もアルキスに教えはしなかった。幼いザイウスさえ、自分の両親の話をアルキスにもらすことはなかった。周囲の大人たちからメサウィラという小さな帝国のことを教えられたアルキスは、自分の「父」にあたる人間がその頂点に立っていると聞いても、自分に関係がある話とは思わなかった。
アルキスはザイウスとともに、まずは庭園を、庭園が狭くなれば広々としたグスキアの沃野を、駆けめぐった。ザイウスはどこまでもアルキスについてきて、アルキスが危うくなるとどんなときでも駆けつけた。あるとき、木から落ちたアルキスをかばい、ザイウスは顔に大きな傷をつくった。そのときの傷は死ぬまで消えなかった。ザイウスはそれからも、アルキスのそばにいつづけた。
世界が変わる日は、突然やってきた。アルキスはメサウィラの中心、樹上城に呼びだされ、帝王位が自分のものになるのだと告げられた。アルキスの知らないあいだに、帝王である父親が身罷り、アルキス以外の数多の兄弟姉妹――とその係累――のあいだで闘争があった。そして、アルキスの知らないあいだに決着はついていた。
メサウィラの王子と王女は、帝王位を継ぐ者以外すべてが奴隷として追放されるならわしだ。アルキスが樹上城の頂上、まるい天空の下にはじめて立ったとき、そこにはアルキス以外だれもいなかった。まだ背丈ものびきっていないザイウスと手をとりあい、うす寒い場所を見渡したとき、どうやってグスキアの野へ戻ればいいのか見当もつかなかった。
玉座のうえに放りだされたアルキスの前に現れたのは、メサウィラに代々仕える星見の男である。ストリキオという盲目の男は、見えない目で何もかもが見えているかのようにアルキスに物語る。アルキスが〈王〉の星のもとに生まれたこと、そのためにアルキスの兄弟姉妹は一人残らずメサウィラから追放されたこと。ストリキオが教えたのはそれだけだ。
あとは再び、ザイウスと二人で取り残された。ザイウスは親友として手をつないだまま、アルキスを見やり、それから臣下としてアルキスの手を離した。
――アルキスさま。わが帝王よ。私があなたのメサウィラの最初の民、最初の兵です。どうかご随意に。……
ひざまずく少年の姿に、もう一人の少年が感じたのは絶望だった。けれど、絶望はやがて別のものに姿を変えた。
――私は〈王〉の星のもとに生まれた。〈王〉は並び立たない。〈王〉はひとり。
このとき、メサウィラ帝王アルキスは立った。円形の空の下で。
アルキスの仕事は、世界を知ることから始まった。狭すぎた幸福な世界の代償は、まだ少年だということを差し引いても、メサウィラという国を背負うにはあまりにも無知だということだった。
彼は知らなかった。メサウィラのある〈恵まれた中洲〉と呼ばれる一帯は、世界全体からすればほんの一部にしかすぎないことを。彼は知らなかった。〈恵まれた中洲〉の外には、あまりにも広大な〈毒の水脈〉に覆われた〈草の海〉があり、その中で人は長くは生きられないことを。彼は知らなかった。それでもその中で生き抜く強靱な人々や、〈草の海〉のきわで短命に終わる人生を受け入れる人々を。
自分がグスキアで思うぞんぶん吸いこんだ、乾いた草の匂いが、他のほとんどの場所では猛毒だというのは信じがたかった。〈草の海〉の中では農耕もろくに行えず、〈草の毒〉を含む植物を中心にした採集・狩猟生活になる。限られた食物と、自分たちの生活を助けるだけの牧畜しかもたない彼らは、自然、唯一の売り物を売って生きていくことになる。――自分の肉体である。
それは文字どおり〈恵まれた中洲〉の中にある国々で奴隷や娼婦になるということでもあり、また国同士の戦に加勢する戦士になるということでもある。〈恵まれた中洲〉では、狭い豊かな土地をめぐってたびたび小国同士が衝突した。毒のある〈草の海〉に囲まれていては、それは当然のことだった。
いかに幼時の自分は幸福だったかということ。それは無知と、たまたま与えられた境遇のうえに成り立っていただけの、根のない草のような日々だったということを、少年王アルキスは痛感した。そして、〈恵まれた中洲〉に本拠地をおくメサウィラは、戦わなければならない。戦って、決して広くはない〈恵まれた中洲〉をわがものにしなければならない。
樹上城は、そんな状況下でメサウィラが独自にみいだした知恵の結晶だったが、樹上城の中で獲得できる食料にはおのずと限界がある。文字どおり、大樹に寄生して生きている。木の上に住むメサウィラの特権階級を真似て、他の国々や部族も同じように大樹をくりぬいて住処にしてみたが、多くが数年のうちに倒壊の憂き目をみた。樹上城は今のところ安泰にみえたが、いつ他の木と同じように倒れるかわからない。いつまでも木の上から他を見下ろしてはいられないのだ。しかし、木を下りれば戦いが激化するのは目に見えている。
――お察しのとおり、われらの樹上城は遠からず倒れましょう。だが、あなたさまがご存命のあいだはもちます。あなたさまが〈王〉の星のもとに生まれたがゆえに。
星見はアルキスにそう言った。星見は、アルキスが自分でたどりついた正解を裏づける。だが、アルキスが自分で正解をみつけない限りは決して予言しようとしなかった。
――それは、星々のすべてを知って、正気でいられる者などいないからでございます。ましてあなたが帝王であれば。あなたは人の上に立つ星の宿命を授けられたお方。誰よりも正気でなければなりませぬ。
――その宿命は誰が決める?
――星神。星々の意志にございます。それは抗えぬもの。〈王〉であるあなたとて、それは地上の人々と変わりません。
――抗う気はない。私は幼いころ何も知らずに幸福だった。誰もが幸福であるように願っている。
――心やさしき王。願わくはそのやさしさのまま、踏みとどまっていただけますよう。
それは、予言をしない星見ストリキオの、数少ない予言だったが、少年王アルキスはそのことには気づかなかった。
自分は変わらない。あのグスキアでもらったやさしいものを、自分は抱きつづける。それを思いださせてくれる存在――ザイウスが、いつもそばにいてくれる。その誓いの証明であるザイウスの傷を、痛々しく思う気持ちもあったが、同時に誇らしくもあった。
あるときから、ザイウスのかたわらに、幼い妹セレステの姿があった。セレステはザイウスよりも十歳あまり年下で、すでに青年の年齢にさしかかっていたアルキスたちにとっては、守るべき存在だった。
短い休暇を得ると、アルキスはザイウスたちとともにグスキアに帰った。グスキアの沃野は、メサウィラの辺境に変わらず存在していた。
アルキスは懐かしいグスキア館から、広々とした野に飛びだす。そこが世界からすればほんの小さな場所にすぎなくても、それが世界のすべてだったころの自分の幸福を思う。
背後からはザイウスが付き従ってくる。アルキスはザイウスを振り返らない。セレステを振り返る。小さなセレステは、ひどく背丈の伸びた二人の少年に追いつけない。振り返ってセレステを待つと、満面に笑みを浮かべた幼い娘が、疑うことも知らず駆け寄ってくる。
いつしか、アルキスのまわりを、やさしさよりも不信が覆うようになっても、ザイウスとセレステはそこにいた。だが、柔和な心の少年は、やがてアルキスの中から消えていった。
アルキスは変えようとした。メサウィラという国を。そして世界を。
与えられた境遇ゆえに、その狭い世界で戦いをくりかえしていることなど、アルキスには許しがたかった。そのやさしさゆえに、アルキスは厳格な帝王となった。
アルキスは徹底した殺戮を行った。二度とアルキスに反抗する気概をもてぬように、完膚なきまでに叩きつぶした。アルキスのメサウィラ軍が通ったあとには、誰ひとり生きていないといわれた。〈恵まれた中洲〉内の資源が貴重であるがゆえ、資源には傷をつけず敵対する人間のみを滅ぼしたため、大盗賊とも揶揄された。
帝国内部でもそれは同じだった。アルキスの方針に従わない者は容赦なく粛清された。心やさしかった少年は、当初、すべての民によりよい境遇を与えるための改革に反対する者が出ることに心を痛めた。しかし、そうした者たちと接するうちに、彼らはただ既得権を維持し己が安寧のみを願って〈恵まれた中洲〉での戦いをくりかえそうとしていることを知り、帝王たる少年は無条件のやさしさを捨てた。
ザイウスとストリキオを除く側近は、みなアルキスと距離をとった。峻厳なる帝王は、讒言(ざんげん)をもって近づいてくる者を次々と斬った。こうして〈恵まれた中洲〉でうごめく小さな国々のひとつでしかなかったメサウィラは、徐々に孤高の存在となっていった。
同時にアルキスは、世界を知ろうとした。それはいうまでもなく、〈恵まれた中洲〉のこと、そして広漠たる〈草の海〉のことだった。自分たちを狭い中洲に追いこむもの。できることなら支配したい。〈草の海〉の範囲を狭めたい。つまり、人間が健全に生きていける場所を増やしたい。思いどおりにできないとしても、せめて知らなければならない。
〈草の海〉とは何なのか。〈草の毒〉とは何なのか。中には、〈草の毒〉を浴びながらも生きつづける者たちもいる。生きる者と死ぬ者のちがいは何か。〈草の海〉にまつわる観察と研究と対処。また反対に、〈恵まれた中洲〉はなぜ発生したのか。〈恵まれた中洲〉を広げることはできないのか。アルキスは樹上城に学者を集めて研究させた。
学者たちは樹上城の中で、はたまた各地に散って、〈草の海〉と〈恵まれた中洲〉の研究を進めた。さまざまな知見がアルキスのもとに寄せられてくる。アルキスは決して側近まかせにはしない。信頼できる二人の側近、ザイウスは机上の仕事が不得手で、ストリキオは星見以外の仕事はしない。他の側近の目と手を通した報告など信用できない。アルキス自身がその研究を統括しようとした。そのために、少年期はあっというまに過ぎ去った。
アルキスは青年となった。〈草の海〉の果てをめざして旅立っていった学者の一人が、〈草の海〉の果てで巨大な毒の水たまりと遭遇したことを報告してきた。
〈毒の海〉。その海のそばで暮らす民は、そう呼んでいた。〈草の海〉の海とは、この〈毒の海〉からとられた比喩だった。
それは、うつくしい。あまりにもうつくしい。どこまでも透明な空へ、私は帰りたい。
初めて〈毒の海〉に到達した学者は、そんな手記を残して姿を消した。
猛毒の海の中へ、学者が入っていったのだと伝えたのは、次に〈毒の海〉に到達した別の学者だった。
そこからは、さまざまな報告が次々にもたらされるようになった。〈毒の海〉は時によってその様相が変わるということ。夕方には拡大し、朝方には縮小するということ。季節によっても変化するということ。だが、付近の民によると〈毒の海〉は年々その領域をひろげており、敵対者がいないゆえに〈毒の海〉のそばを選んでいたその集落は、数年ごとに波打ち際から距離をとるということ。
やがてもたらされた知見は、星の位置と〈毒の海〉の水位にかかわりがあるということだった。ここでアルキスは、久方ぶりに星見ストリキオの口をひらかせることができた。
――メサウィラが星見をおくのは、ゆえなきことではございませぬ。万物の運命を司るということ。人間も万物の一要素です。星のめぐりとともに海は満ち引きし、人間もまた現れ、そして消えていきます。星は〈毒の海〉の浜辺の砂粒のように多い。その中から、メサウィラにまつわるものを見いだし、その行く先を見る。それが星見なのです。
――世迷言のたぐいだと思っていた。では、私が〈王〉の星だというのは、本当に?
――いまだかつてない繁栄をもたらす、この世界の〈王〉。それがあなたさまの星です。ただし……
――ただし?
ストリキオは、なんら迷うことなく答えた。言いよどむということもなかった。至極当たり前のことというように、いつもの訥々(とつとつ)とした口調のまま続けた。
しかし、アルキスの耳はストリキオの言葉を拒絶した。
――もう一度。
アルキスは言った。
――もう一度。
最初は、なんの感情もない声で。二度めは、それをくりかえし。ストリキオは促されるままに反復したが、アルキスの耳はわけのわからない音声をとらえただけだった。
――もう一度。……
三度めは、あえぐように。
――この世界にかつてない繁栄をもたらす、この世界の〈王〉。ただし、その死をもって春をあがなう、〈冬の王〉の星。それがあなたさまに与えられた運命なのです。……
