石づくりの部屋は、蒸気で満たされていた。
不明瞭な世界を見るともなしに見ながら、少女は寝そべってとろりとしている。頬が熱い。頬だけでなく、全身もだ。こんなに熱い場所は生まれて初めてで、正常な思考を保つことができない。
息を吸っても熱い空気が入ってくるばかりで、ちっとも頭が冷えない。かたわらにはトカゲが寝そべっていたが、いつものように涼しい顔をしている。
抵抗する気力も熱に奪われ、エンジュは台の上でされるがままだった。夢とうつつの境をさまようエンジュのそばで、上半身裸の中年女がしきりと背中をなでさすっている。エンジュの全身いたるところからわいてくる古い皮膚をすりだしては、熱い湯で流していた。
「こんな垢まみれのお妃がいらっしゃるとはね」
女はそう言いつつ、手はとめない。ひたすら仕事に従事しつづける。エンジュの戸惑いなどおかまいなしだ。
浴室というものはティンダルにはない。ティンダルでは入浴に水を使うが、甕(かめ)に貯めた雨水に貴重な毒抜きの薬草を浸して、食事や水浴びなどありとあらゆることに用いる。〈草の海〉の毒に病んだ者を癒やすのは、そのわずかな水だけだから、健康なエンジュが大量に使うなど考えられなかった。しかもこの蒸気も、湯を大量にわかして発生させているというのだから、途方もない。
「ここなら、〈草の毒〉なんかたちどころに抜けてしまいそう」
「まぁ! 当然ですよ。お妃さま」
女は声を張りあげた。「お湯はなんでも流してくれます。毒も、心の澱も。〈草の海〉まで遠征する兵は、誰もが帰還して公衆浴場に行くのを楽しみに戦います」
「だからあなたは浴室で働く女になったの?」
「あらまぁ! まだそんなことを考えなさる。もっと洗い流さなけりゃ」
女は頭から思いきり湯をかけてきた。いちだんと熱くなり、わけがわからなくなる。
「水が豊かなのね。メサウィラは。あの庭も……水が豊富に流れていた」
耳の奥で、水音がささやく。あれは、彼がつくりだしたあの庭か、それとも夢の庭か。いずれにしても、今は夢の中のことのよう。あるいは、今いるうつつが夢なのか?
「それが〈恵まれた中洲〉の恵みってものでしょうよ。それを余すことなく使って、私らにも分けてくれる。それが帝王さまですよ」
女は誇らしげに言って、よい香りのする油をエンジュに垂らした。油の流れる軌跡だけがひんやりとして、少し安堵したエンジュだったが、香りによってまた夢うつつの境へと運ばれていった。
「見ちがえたぞ、エンジュ」
アルキスのまえに導かれたとき、エンジュは不慣れな長い衣を引きずっていた。
やわらかな肌触りの布地がくすぐったい。いつもアルバ・サイフを引いている両手両足が軽すぎて、エンジュはしきりに衣をもてあそぶ。衣をうごかすたび、衣に縫いつけられた無色透明の石がきらめく。衣にたきしめられた香りがやたらとたちのぼってくるのも、少女は理解に苦しんだ。
「そなたには、刃よりもやわらかいものが似合う。娘とはそういうものだ」
「ティンダルの娘は刃で戦う」
「しかし今は滅びた。最後のティンダルは、新しい生き方を生きよ」
「まだよ。まだマリオンがいる。ティンダルを滅ぼした張本人でも、マリオンはティンダルの馬。マリオンはどこ?」
脳裏に、黄金のたてがみがひるがえり、笑声がよみがえる。
――喜びを知ったあなたを、わたしは絶望の淵に叩き落として、それから終わりにする。
マリオンとの戦いは、まだ終わっていない。
「私には復讐しないのか? エンジュ」
「復讐じゃないわ。マリオンは敵よ」
「ティンダルを滅ぼしたのは私だ」
「あなたは敵じゃない」
「わからないな」
青年は降参とばかりに両手をあげた。
「あなたにはわからない。あなたはわたしではないし、マリオンでもない。わたしたちは同じもので、あなたはちがうものだから。だからわたしは、あなたと一緒に来た」
「おいで」
さしだされた手を、迷わずとる。アルキスのとなりに立って、彼に導かれるまま進む。
帝王一族専用の浴室は、樹上城のふもと、いつかエンジュがユーダたちと踊ったあの広場に面していた。
石段を一段一段下りていくと、そのむこうの広場に女たちが何かをまいているのがみえた。それは、赤く染められた鳥の羽だ。うながされ、その羽毛を布の靴で踏みしだく。即席の絨毯の上を、エンジュは歩いた。
――運命を曲げ、従わせる者よ。
誰かが叫んだ。それに続いて、広場の人々がそれを唱和する。
――運命を曲げ、従わせる者よ。
アルキスはこたえて手をあげる。
「私の呼び名だ。そなたもこたえてやってくれ」
いわれるまま、つないでいないほうの手をあげる。息をのむような歓声と、
――運命を導く舞手よ。
というひと声。
「名をつけられたな。そなたの舞は、見事だったようだ。民はそなたを覚えている」
アルキスはあの舞のことを知っている。あの日、腹心の友ザイウスはアルキスを裏切ったのだから。
アルキスはとなりで笑っていたが、エンジュは笑えなかった。手を下ろし、仰々しい呼び名で自分を呼びつづける人々から目を逸らした。
ふたりは人々から離れ、樹上城の根元に入った。広場がもとどおりの喧噪になるのを背に、ティンダルの住居ほどの大きさの籠の中へ、エンジュは導かれる。ふたりとトカゲが中に入り、扉が閉ざされると、籠はうごきだした。
「民の前で目を逸らすな。いつも顔をあげていよ」
エンジュは目を伏せた。
「わたしの舞はあの名前に値しない。もう踊らない。絶対に」
「そなたの舞を見られないのは残念なことだ。だが、私は舞が見たいのではない」
「わたしは何をすればいいの」
少女は涙をたたえて、かたわらの青年を見据える。たったひとつ残されたのは、目の前の青年だけ。
富める帝国の王、自分が殺した男の友、故郷を壊した男、自分のやわらかい感情のすべてを捧げた男。
丈夫な葦を編んでつくられた籠に、光がさしこんでいる。光と振動とが、自分たちの位置の上昇を知らせてきた。以前も死んだ男に連れられて乗りこんだはずだが、あのとき完全に意識を失っていたエンジュは何も覚えていない。
あのときよりも高く。この籠は行く。
――行く先になにがあるのか、何もわからなくても。
青年は手をのばして、指先でエンジュの涙を拭った。
こんなとき、やはり夢の中の少年と、目の前のこの人が同じ人物であることを思う。
「いずれわかる」
アルキスが答えたとき、籠は止まった。「おいで」
再び手に手をとって樹上城の床に降り立つと、そこには広大な空間があった。
頭上は、ぽっかりと開いている。頭上高く生い茂り、この空間を囲っているのは、木の葉。梢だった。葉群の中心は広く開いていて、そこに群青の空がのぞいていた。
以前、樹上城にのぼったときは、パンタグリュエル邸にいた。樹上城の内部にあって、大樹の幹をくりぬいてつくられた数多の住居のひとつだ。だから、調度は上質であっても、広い空間はなかった。あるとしたら、絶壁の先にあるものだけだ。
だが、この場所は梢に包まれている。根元へ落下するためには、あの枝を越えていかなければならない。
梢に守られた広い空間。
「〈樹上〉、〈城〉……」
「そうだ。ここが、この頂点」
エンジュは視線を下げ、周囲を見渡した。まるい空間を守るようにそびえる梢の下、平らにならされ磨かれた、広々とした木の床が横たわっている。
布靴で歩いても、ささくれひとつ残っておらず、やわらかささえある感触。まさにここが大樹の中に築かれた城であり、この場所がその頂上であり、帝王のためにつくられた場所なのだと、エンジュにもわかった。
もう一度、空の青を見上げる。まるい天空の眺めだ。帝王にだけ許された、樹上の光景。
「そなたのものだ」
「わたしの?」
「そなたにやる」
世界にふたつとない光景、ふたつとない僥倖。が、エンジュは言葉が出てこなかった。うれしい? うれしくない? どちらともつかない感情。エンジュの心は浮き立たない。
けれど、
――この人の手をとりたい。……
それは、誘惑といってもよかった。身を滅ぼしかねない誘惑。それとも、滅びるのは自分自身ではなく、他の誰かなのだろうか? だとしたら、自分自身は?
(マリオン)
もうひとつの、エンジュの運命。(あなたなら、知っている?)
だが、知っていても、知らなくても――自分はこの人の手をとってしまう。
「さっきの質問をくりかえすわ」
エンジュは男をまっすぐにみつめて訊く。「その代わりに、わたしにしてほしいことは、何?」
アルキスは一瞬うごきをとめて、次の瞬間、声を放って笑った。
「大した女なのか、つまらぬ女なのかわからないな。恐ろしいことをさせられるとわかっていて、拒まぬのか」
「ええ」
短く、それだけを答えると、アルキスももはや笑わなかった。うなずいて、エンジュの手を強く握りしめたが、必要以上に強い力で握りしめていることには気づいていないようだった。戦場を駆けてきた少女は、手に痛みを感じても何も言わず、続く言葉を待った。
――わたしは、ほんとうは歌を探しにきたの。星々の庭の鍵。……
は、とエンジュは息をのんだ。よみがえってきたのは、金のたてがみと、赤の瞳。
「歌……」
エンジュはアルキスを見た。「歌のために、ティンダルを滅ぼしたの?」
青年の表情が変わった。エンジュはそれを見てとった。
「帝王アルキス。悔やんでいるの? ティンダルには滅びない道もあったの?」
「滅ぼす必要はなかった。だが、滅びた者たちは帰ってこない。危うくそなたも歌も失ってしまうところだった。あれは、そなた以外の歌う者たちを、ひとり残らず殺してしまった」
「……やはり、スエンたちも死んだのね」
エンジュは焼き尽くされた集落のなかで、殺されたティンダルをすべて確認することはしなかった。だから、マリオンが討ち漏らすはずはないとわかっていても、どこかでスエンたちが生きているかもしれないという淡い期待が残っていた。それは今、完全に消えた。
「スエンたち謡い家の歌い手は、〈星々の庭の歌〉を代々伝えてきたの。わたしは彼らの歌が好きだったけど、彼らはわたしを謡い家に迎え入れても、決して歌を教えてはくれなかった。でも、マリオンがティンダルを焼く直前、謡い家の長スエンは、わたしのための歌だといって教えてくれた。それが〈星々の庭の歌〉」
「私にはわが妹を制御できない。あれは怪物だ。他の兄弟たちとともに放逐されたあれが、ティンダルの歌をひっさげて帰ってきたときから、いつでも喉もとを狙われている。同時にあれは、初めてもたらされた希望でもあった。ようやくもたらされた、わずかな希望」
「希望……」
「〈運命を曲げ、従わせる者〉。それが、私の呼び名」
「あなたの運命は何?」
「死」
「人は誰もがいつか死ぬ。そういうことじゃないの?」
「〈王〉である私の死はメサウィラの滅亡だ。メサウィラが滅びれば、人々がいま享受している幸福も消える」
「それは予言?」
「そう……呪いだ。呪われた星、それがメサウィラの帝王アルキスの運命。私ひとりの死なら、それもよい。平凡なひとつの死にすぎないのだから。だが……」
思わず、エンジュは青年を抱き寄せた。
一度は自分の知っている少年とは別人のように思えた青年が、今はあの夢の中の少年にしか見えなかった。あのやさしい少年は、やはりアルキスの中にいる。
少年は、今ここに、エンジュの目の前にいた。
「わたしが祝福してあげる」
少年のからだから、エンジュの耳に聞こえていた歌は、自分の命の限りを知る人のかなしさだった。スエンはきっと、同じかなしさにつつまれて死んでいったのだろうと、エンジュは思った。
「〈王〉よ」
まるい空に夜が訪れ、天蓋が藍色に染まったとき、そこに現れた男は目を隠していた。
エンジュはアルキスのかたわらで、その男が一歩一歩近づいてくるのを見た。
マントで頭を覆い、布で両目を覆う男の足どりに迷いはない。この世界に何ひとつ知らないことなどないかのような姿は、どうしようもなくティンダルの謡い家の人びとを彷彿とさせ、エンジュはとなりにいる青年の袖をにぎりしめた。
「メサウィラにも謡い家が?」
「メサウィラにいるのは星見(ほしみ)だ」
「あなた、ティンダルの謡い家の人々を知っている?」
アルキスの答えを待たず、エンジュは男に駆け寄った。「あなたと同じように目を隠した人たちがいたの。なんでも知っていて、やさしい……」
「奥方さま。私はティンダルの謡い家とはゆかりがございません。目隠しであるがゆえに、その者たちはティンダルで、私はメサウィラで、同様のお役目をいただいているということでございましょう」
エンジュは男から離れた。この男は星見であって歌い手ではない。スエンたちもまた、見えない目で、他の者には見えないものを見通す力があった。
「ストリキオと申します」
男は頭を下げた。
「星見のストリキオ。あなたはアルキスの運命を知っている」
「存じております。私が星を読み、その運命を王にお伝えしました。ですが、王の運命については、メサウィラの民はみな知っております」
「民はアルキスの味方なのね。アルキスの隣にいたから、わたしまで受け入れられた」
「王はご自身の運命を知り、運命に抗い、運命を変えられた。そして、そこから獲得した利益を民に与えた。それゆえに民は王の味方なのです。言い換えれば、王が民に利益をもたらさなくなったそのとき、民は即座に王を見捨てましょう」
「アルキスはどんな運命を変えたの? これからやってくる運命――アルキスと帝国の死を、どうやってわたしの歌が変えるの?」
「奥方様は何もご存じなく〈歌〉をうたわれるか」
「ティンダルでは、謡い家で歌をうたうのは目隠しの人たちだけ。わたしには、本来は歌は許されていない。きっと、謡い家の長老は、自分たちが滅ぶことを知って、生き残るわたしに歌を伝えようとしたのではないかしら。不思議な力をもつ歌だから」
「そうではありますまい」
ストリキオは、思いのほかはっきりと言い切った。「力ある〈歌〉だからこそ、心得がない者に伝えるのは危うい。おそらくは、あなたさまのものを、あなたさまにお返ししたということでしょう」
「わたしの……」
――目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある。
スエンは、そう言ってエンジュにあの歌を教えてくれた。若い目隠しの少年もあの歌を受け継ぎたがったが、スエンは許さなかった。少年はただ聴いているようにと諭された。あれは、彼がスエンとともに滅びる運命だったから、歌を習っても意味がないともとれるが、スエンの言葉には一度として空虚なものはなかった。やはり言葉どおり、あれは〈エンジュの歌〉だということなのだろう。
しかし、〈エンジュの歌〉とは何なのか。いったい誰がエンジュのためにあの歌をつくり、ティンダルに伝えたというのか。
「わからない。わたしは何も知らされなかった。あの歌以外の歌は、教えてもらえなかった。スエンたちは、わたしが聴いているのに気づくと、歌をやめてしまった。〈星々の庭の歌〉以外は」
「奥方さま。私は何もかも知っているわけではないのです。まして、それが人智を越えたものごとであれば。しかし、私に見えるものもあります。私は私の盲いた目に見えるわずかな光から読むだけなのです。星々の〈歌〉を」
「それが星見だ」
と、アルキスが受けた。「星見はその見えない目で、常人には見えない光を見る。星見の才に恵まれた者たちは、この天空に浮かぶ星々から〈歌〉――詩、韻律のある言葉といってもいいな。それを読むのだ」
「星は歌う?」
「そうだ。メサウィラは、古くからそれを知っていた。一族のなかに星見をおき、星の〈歌〉を読み、予言や箴言といったかたちの詩から、一族に近くもたらされる幸運や災難をあらかじめ知り、それに沿って決断してきた。メサウィラという小さな一族は、そうやって生きのびてきた。――私、アルキスが現れるまでは」
「アルキスさまは〈王〉の星のもとに生まれたお方。それもただの〈王〉ではない」
星見のストリキオは滔々と語る。「〈冬の王〉。それがアルキス様の運命なのです」
