07. 最初にして最後のデート - 16/16

 目の前で、しばらく光がちらちらして、消えなかった。
 サイレは扉に手をついたまま、おもかげを探していた。しかし、観覧車のゴンドラは地上を遠く離れ、麦粒のようになった人々のなかに、彼女がいるかどうかは判然としない。
「サイレ。どうしたの?」
 やっと会えたのに、と、こころなしか強めに口角をあげたシファは、なぜか探していたものとはちがう気がする。
「いえ」
 としか、いいようがなかった。自分でも説明がつかなかった。イヴたちの監視を振り切ってここに逃げこんで、何時間もさまよったあげくやっと二人きりになれたというのに。サイレは詮方なく、腰を下ろした。
 目的は達成した。イヴとの勝負に勝った。
 でも、それだけだ。
 今なお、目の奥に、ちらつく光。それはサイレの目から去らない。
(なんだ、これ)
 不愉快だった。今日の目的は達成したはずだ。それなのに何の達成感もなく、目の前にない幻を追い求めている。
 渇きはやまない。
 生まれてこのかた、ずっとサイレにつきまといつづけている、渇き。
 アカデミアに入っても、それなりの成績をおさめても、歌と出会っても、〈カンパニエ〉で主役を張るようになっても、渇きはおさまることがなかった。
 いったい何を目的に据えれば、何を達成すれば、この渇きはおさまるのか。無性にサイレを苛む渇きは、サイレを行動へと駆り立てた。渇きがおさまるまでは、足をとめることはできない。叔父の部屋で〈立体天宮図〉をみているときが、唯一の安らぐ時間だった。
 常に心臓がうるさく騒ぐ相手――シファ・アーマディーが、この渇きを潤す人なのかもしれないと、ようやく思った。それなのに。
 ただ目の前にないものを、求めつづけたいだけなのか?
(マゾじゃあるまいし――この人にしとけばいい。今ここに、この人はいるんだから)
 サイレはシファを見据える。シファのほほえみは、サイレにむけられているようで、むけられていなかった。
 それを、サイレはこのとき初めて気づいた。シファの目の焦点が合っていない。シファが見ているものは、サイレではない。何か遠くにあるものを、シファは見ていた。
 思えば、誰に対しても、いつ何時でも、浮かべられている微笑なのだ。そんなことはわかりきっていたはずなのだが、今の今までサイレはわかっていなかった。今、サイレは初めてシファという少女に対峙していた。サイレはシファから目を逸らした。
 眼下には、ライトアップされたテーマパークの風景。大観覧車のあるサウス・アイランドは、観覧車の真下に位置するだけに、観覧車に乗って見下ろしたときもっとも美しくなるようライトアップされている。色とりどりの人工照明が、高級店のケーキのように品よく配置され、サイレがいつも連れている彼女たちならさぞかし喜んだことだろう。
 だが、いま目の前にいるのは、一般的な若い女性の感覚とはほど遠い存在だ。
「ライトアップ」
 サイレは口を切った。「きれいだと思います? シファさんは」
「どうでもいいと思うわ。ほかのアトラクションと同じ。しょせん人がつくりだしたもの。光ろうが回ろうが落ちようが、一緒よ」
 もうわかっていることじゃないかしら? と彼女は言い放つ。退屈な質問だといわんばかりの、かすかな嘆息。
「そうですね。でも」
 サイレはシファに対して先手をとれたことに少しだけ愉快さを覚えながら、言う。「『どうでもいいこと』があるってことは、『どうでもよくないこと』があるってことなんじゃないですか?」
 興味の光が、シファの瞳にともった。
「いいわね」
「でしょ?」
 おりしもゴンドラは大観覧車の頂上に到達しており、普通の女の子なら大はしゃぎするような夜景が眼下にひろがっていたが、シファはそれを単なる背景とし、目の前にいるサイレに注意をむけてきた。
「わかります。おれもそうでしたから」
 叔父に呼ばれてエンジュの星(メモリア)に出会った、あのときまで。世界のほとんどは、ただサイレをよそに流れていくだけの、どうでもいいものばかりで構成されていた。でも、言い換えれば、どうでもよくないものがどこかに存在していて、自分がそれを探している、ということを意味していた。
「シファさんの『どうでもよくないもの』ってなんですか?」
「興味あるの?」
「はい」
 高鳴る心臓にうながされて、サイレはうなずいた。
「そうね。――ひとつだけ。わたしにもまだ残っている」
「それは?」
「それは……」
 それは、一瞬のできごとだった。
 すっと手をのばしたシファが、サイレのあごに触れ、あまりにも冷たい指に驚いた、その直後だ。
「あなたの歌をわたしに頂戴」
「おれの歌――」
 ひや、としたものが、唇に触れて離れる。
 ただ、それだけだった。ただそれだけのことで。シファの表情が、ひどくゆがんだ。涙さえ、その眼にたたえて。
 嫌悪? 憎悪? 落胆? その中にはひとつもポジティブなものはなかった。けれどそれは、シファを知ってから初めてみる表情だった。少なくとも、あの張りついた微笑を忘れる程度には、その行為には意味があったのだろう。
 サイレにも、とくにこれといって感慨はなかった。シファの表情が変わった、ただこの一点にのみ、サイレは興味を惹かれた。
「どうでもよくはなさそうですね?」
「だめ」
 シファはつぶやいて、いつになく冷静さを欠いたまなざしでサイレをにらみつけた。あのほほえみを見慣れた身からすれば、新鮮このうえないが、事情がまったくわからない。
「なぜなの」
「さあ……」
 シファに襟を引き寄せられ、今度は乱暴に咬みつかれる。「つッ」
 情緒のかけらもない行為だった。シファはサイレに関心がない。関心があるのは――
「……歌? ですか?」
 咬まれた唇がちりっと痛む。
 傷をなめて、サイレは至近距離でシファを見る。距離をとることも忘れ、至近距離で茫然自失したままの少女を。サイレに恋をしているわけでもなんでもない、この少女を。
「おれの歌を……ってどういう意味です? キスしたら歌がうたえるようになる、なんてことあります?」
 サイレの心臓は、すでに騒ぐのをやめていた。呆然としているシファに、かすかな優越を感じたとき、サイレの胸の高鳴りは収束していた。憐れみさえ覚えながら、サイレは目の前の少女を見ていた。
 それは突然の変化だった。一瞬、サイレは何が起こったのかわからなかった。
 ただ、シファによって自分が壁に叩きつけられたのだ、ということはわかった。受けた衝撃に、思考が止まる。
 どくり、と心臓が警告する。
 ――警告?
「ふふ」
 シファは笑った。
 いましがたサイレをゴンドラの壁に叩きつけたその手で、サイレの首をつかんだ。少女とは思えない大きな手だった。サイレなどのみこんでしまいそうな、大きく冷たい手。
「シファさん……?」
 警報が鳴る。
 けたたましく鳴り響く音に、サイレはびくりとした。監視カメラが異常事態と判断したらしい。二人を乗せた大観覧車のゴンドラは急速にスピードを上げ、一挙に地上へとむかいはじめる。トラブルのあったゴンドラは、こうやってすみやかに地上に戻されるらしい。
 だがこの大観覧車では、頂上は全体のほんの四分の一でしかない。乗りこむ地点は円の九十度地点であり、そこは〈ワールド・アトラティカ〉の人工海の水面なのだ。
 ざん、と大きな水音をたてて、ゴンドラは海へ飛びこんでいく。ライトアップの光がさしこむ人工の海の中へ、ゴンドラは入っていく。そう、〈ワールド・アトラティカ〉の大観覧車は、〈アトランティスの時間〉以降、半分は空の中に、半分は海の中にある。
 暗い夜間の海に、ネオンの光が幾重にも折り重なって踊っている。その毒々しい光を浴びて、シファの瞳は――赤い。
「ははっ」
 おさえこむようにして笑ったシファは、次の瞬間たがを振り切るように声を放った。
 狭いゴンドラの中に女の笑い声が反響し、呼応するように光がまたたいた。
「――『約束』!」
 唐突に叫んだ。笑って、また、高らかに笑う。サイレはそれを、見ていることしかできない。何が起こっているのかわからない。サイレの心臓はひときわ激しくうごいている。
 ひとしきり笑いつづけたあと、ようやくサイレの存在を思いだしたかのように、赤い瞳が少年をとらえた。サイレの首をとらえた手に、ぐ、と力がこめられる。
「シファ、さん」
「簡単ね」
 その声は、静かだった。「ねえ、今度もこれで終わってしまうわよ。もっと逃げて、逃げて、どこまでも」
「逃げ、って」
 喉を押さえつけられていて、声が出ない。
「ねえ……そうじゃなきゃ、つまらないわ。――『お兄さま』。やっぱりだめね、あなたの星では。抗う力がない。いつもされるがままの犠牲の星。死して世界に春をもたらし、みずからは決して春を知ることのない――〈冬の王〉」
 ゴンドラは沈んでいく。水深一二〇メートルの海の底を、急ぎ駆けていく。
「言ってる意味が……」
「わからない?」
 シファはもういつもの微笑に戻っていたが、サイレの首をつかむ手をゆるめることはなかった。
「わかったときは、終わりだからよ」
「終わり、って」
 苦しい。息ができない。
「あなたは、誰……?」
「わたしは――」
 唇が、蠱惑的にゆがむ。サイレは思いだす。あの日〈オペラ〉の階段ホールで、警報音と自分の心臓の音に追い立てられながら、サイレはそれを耳にしていたことを。あまりにも突拍子のない言葉で、脳が拒絶したことを。
 無数の泡が、ゴンドラのガラスの外をはしっていく。

 ――わたしは、あなたの死。……

 緊急事態の発生を告げる警報音とともに、大観覧車のゴンドラが、ハイスピードで次々に地上へ戻ってくる。
 空を横断し、海をもぐる〈ワールド・アトラティカ〉最大の見物を中断され、不満と不安がないまぜになった表情の客たちが、ゴンドラから吐きだされてきた。ラケルタは降りてくる客に逆流しながら、サイレが降りてくるだろう降車口に近づいていった。
 人混みのむこうで、すらりとした女がゴンドラから出てくるのを、ラケルタは見た。
 アクア・ブルーの瞳が、一瞬、赤く光ったように見えた。
「――……!」
 その女の名前を呼びかけて、ラケルタは躊躇する。
 女が、わずかに口角をあげてみせたのを、ラケルタは見逃さなかった。
「彼に何をしたの?」
 ラケルタの問いかけは喧噪にのまれた。けれど女の口はうごいた。
 まだよ、と。

 ――まだ、終わらせない。……

 スタッフが女を呼びとめる。しかし女はすぐに解放され、客たちの注目を集めながら大観覧車を離れていった。痴話げんかだって、サイレ・コリンズワースが彼女と別れたらしいよ、というささやきの中に、ラケルタは飛びこんでいく。
「サイレ!」
 その人はそこにいた。首をおさえてゴンドラから降りてきた。けれど彼のからだのなかをまだ血がめぐっている。生きている。
「……よかった」
 もう何も考えられなかった。これから待っている戦いのことも。彼がいま彼女のことを、知りもしないということも。
 駆けつけた少女は、少年にすがりついた。浮気相手だよ、やるね、とささやく周囲の声には、さすがにラケルタも笑ってしまったけれど。