世界から、音が消えた。
長いあいだ、うごけなかった。
かたわらにいる大トカゲに気づいたとき、エンジュは夜が明けたことを知った。
かすかに残る星々のかげの下で、もう空は赤らんでいなかった。
終わったのだ。
いや、終わっていない。まだなにも。始まってさえ。
のども、眼も、からからに渇いていた。けれどからだはうごいた。重石が取り払われたかのように、からだは軽かった。
親友の背中に腰を下ろす。手綱をつかむと、何もいわずともルルは歩きだした。そして、黒い穴のなかへと飛びこんでいく。
大トカゲは黒い壁のなかを落下するように降りていく。壁はどこまで降りても黒い。鼻をつく焦げくさい匂いが、ここでなにがあったかを物語っている。イリルアンの人々を焼き尽くした女が、この焼け跡の先に待っている。
それは不意のできごとだった。
要塞を奥へ奥へとすすむエンジュは、黒い焼け跡のなかで煌々と輝くものをみた。
眼だった。赤に近い、色の薄い眼が、闇のなかで細められていた。
「――マリオン!」
全体重をかけてルルの手綱を引く。めったに声をあげないルルが苦しげに鳴いて、絶壁の途中で急停止した。危うく前のめりに飛びだしかけ、エンジュはとっさに飛んだ。
横穴にしがみつき、這いあがる。振り返ると、ルルが穴の中に顔を見せた。
「そこにいて」
はっ、と息を吐きだす。もう一回。闇に目をこらす。その奥から――赤い瞳が、やってくる。
早朝だというのに、まるで夕日のような。朝の光を知らない眼、夜空を照らす炎の眼。
生まれながらの炎。なにもかもを焼き尽くすために生まれた娘。
散らされた血潮が、彼女の宝石。
「眠れないの?」
エンジュは問いかけた。「眠らないの?」
「両方よ」
マリオンは答えた。闇の奥から、すべりでる。
「わたしたちはそんなふうにはつくられていない。陽がのぼるとともに目覚め、陽が沈むとともに眠りにつくもののようには」
「わたしはいつも、いちばんいい寝床で眠るあなたを横目に、寝屋を抜けだした」
「あのころは、自分が何なのか知らなかった。連れていかれるままティンダルに来て、ティンダルであなたの父親に求められるまま戦った。眠れといわれたから眠った。でも、わたしたちは本来そんなものではない」
「わたしとあなたは」
エンジュは問いかけた。「同じなの?」
「だとしたら、なに?」
マリオンの表情は変わらない。かすかに口角をあげ、夕陽の瞳を細めたまま、エンジュを見ていた。
エンジュだけを。
この残忍な女は、ずっとエンジュだけを見ていたのかもしれない。エンジュが、ティンダルが焼けて以来マリオンを追ってきたように。
「だとしたら」
エンジュは返した。「あなたとわたしがちがうものだと証明する」
「その必要はないわ。わたしたちは同じであり、ふたり」
ふたりの手足からつながる蛇が、同時にその頭をもたげた。「それゆえに、敵なのよ」
にらみあい、徐々に距離をつめていく。
ある一瞬のために。
積み重ね、はりめぐらせていく。見えない糸と見える糸、鋼の蛇八匹がその瞬間を待っている――ふたりの少女がこの世界に生まれ落ちて偶然与えられた同じ武具、その片割れによって滅ぼされた人々に伝承されてきたアルバ・サイフ。
エンジュの右足が、最初に風を切る。
「――マリオン!」
刃がぶつかり、薄闇に火花が散った。戦いを見守る大トカゲの眼に、紫の光がよぎる。
一の刃が防がれても、二の刃がある。二の刃が防がれれば、三、四の刃が。それが〈草の海〉を支配した戦士の一族ティンダルの戦い。そしてそれは、攻める少女だけではなく、防ぐ少女も同じだった。ティンダルとティンダル、アルバ・サイフとアルバ・サイフの戦いにおいては、計八枚の研ぎ澄まされた刃が飛び交い、どちらがいつどちらを咬み殺すかわからない。
――このときのために。
マリオンと戦うために。これまでのすべてがあった。
エンジュは舞う。ティンダルの刃と、ティンダルの挙止。エンジュの蛇は、マリオンを殺すときを待っていた。
(いま目覚める)
――今、はじまる。
「やっと……!」
「それはこちらの言うことよ」
マリオンは右手を軽くうごかす。軽くうごかしたようにみえて、一の刃は大いにうねり、大トカゲの尻尾のように岩穴をないだ。岩はあっさり切りとられ、破片が飛び散る。マリオンとアルバ・サイフにかかれば簡単にうがたれてしまう岩だが、破片が硬く鋭利なことに変わりはない。飛び散った破片は、新たな刃となってエンジュに襲いかかる。
「!」
腕、足、顔と、細かい破片がエンジュを傷つける。しかし、エンジュはかまわず飛んだ。マリオンの放つ蛇の口のなかへ。破片は無視し、アルバ・サイフの刃だけを、ひとつ、またひとつと跳ね返す。避けることをしなかった岩壁の破片が、少女の血潮を散らす。
(受けられる)
――マリオンの刃を、受けられる。
それは、エンジュにとって新鮮な驚きだった。長年、勝てるわけがないと思っていた。ティンダルが血と火に覆われた日、マリオンはエンジュのまえに圧倒的な存在として立っていた。戦うことすら思いつかずに、ただ呆然としていた。
けれど、あのころ拒否していた戦いに慣れてみれば、正面からマリオンと拮抗できる。
マリオンは、エンジュとちがうものではない。同じ場所に立てる。
(立ちたくない)
そう強く思うと同時に、喜びも感じる。(ずっと、ここに立ちたかった)
――そのために、……しても。
独白は、四枚の刃で切り裂かれる。自分の四枚の刃で、みずから切り裂く。厚い岩壁ごと、両断する。焼け焦げた壁が落ち、穴のむこうに蟻の巣の深部がのぞく。
ふたりの少女は跳ね、駆ける。深淵の奥深くへ、飛びこんでいく。闇のなかの弱い光をも反射する鋼の糸を、ひたすらに張りめぐらせていく。罠にかかるのは、自分か、敵か。みずからをも追いこんでいく、血ぬられた蜘蛛の巣。
アルバ・サイフはアルバ・サイフで防ぐしかない。エンジュは他に何ももたない。刃はもちろん、鋼の糸に手を出そうものなら、無事ではすまない。
四枚の刃に対して、四枚の刃。マリオンに届かせるには、もう一枚、刃が要る。
それは、マリオンとて同じだ。
(わたしたちの戦いを、終わらせるのは)
マリオンと、視線が交差する。赤い眼が、ふいに細められた。
その唇から、出た言葉は――
――ザイウス
自分でも、よくわからなかった。エンジュは唐突に、その場でくずおれた。
からだは軽かった。軽いと思った。しかし、うごけない。うごかすことができない。からだの各部分をつないでいた糸が、切れてしまったかのようだった。
――ザイウス・パンタグリュエル
黒く焦げついた岩の冷たさと匂いを、近く感じた。気がつくと、エンジュは岩肌にもたれかかっていた。
「……あなた、が」
握りしめる砂とてない、無情な岩肌が、爪先をかすめる。「あなたが……!」
「わたしが?」
蠱惑的な唇が、笑う。
「あなたがザイウスを、ここに連れてきた。あなたと帝王が。ザイウスを罰するために」
「そう?」
赤い瞳が、エンジュを見下ろしていた。「あなたを逃がした裏切りは、本来なら極刑も当たり前よ。こうしてここに派遣したのは、挽回の機会を与えたかったから。帝王は、何か名目を与えてでも、パンタグリュエルを生かしたかったのよ」
マリオンは攻撃しようともせず、エンジュを見ていた。
「パンタグリュエルを殺したのは……このイリルアンの空気穴に落としたのは」
エンジュは、目をみひらく。
迷うことなく、崖の上でからだの均衡を崩した男。
――あなたは、私の星。
「パンタグリュエルがあなたに殺されることを選び、その望みどおり、あなたはパンタグリュエルを殺した」
奇妙に息苦しかった。息を吸い、からだを動かし、目の前にいる敵を倒さなければいけない。それはわかっていたが、膝に力が入らない。
「それだけよ。わたしと帝王はなんの関係もない」
筋肉という筋肉が根こそぎ奪われたかのように、立ちあがることもできなかった。
息を吸おうとしても、吸えない。黒い岩壁が、急速に圧迫感をもってエンジュの目に映った。からだをうまく使えない。戦いに慣れてからは、あれほど自由に跳べていたというのに、また昔に戻ってしまったかのようだ。ティンダルでくすぶっていたあのころに。
――あなたの涙が、私の王冠の石。……
ぽつ、と涙が岩に滴った。また一滴。
(生きていてほしかった。それがあなたの望みじゃなくても)
先ほど枯れ果てたはずの涙が、エンジュの戦う力を奪い、あとからあとからわきだしてくる。
ザイウスは、エンジュはただ通りすぎ去っていくといった。ユーダは、エンジュは遠からずもっと遠くに行くといった。フリッツは何かを告げようとして、何も言わなかった。
おそらく、今は誰も生きてはいない。
(うごけない)
一歩も、すすめない。
マリオンに手が届かない。すぐ目の前にいるのに。
闇のなかの赤い瞳に、手をのばす。彼女はほほえみを浮かべたまま、何もしようとしなかった。
エンジュの指は、マリオンの頬に触れた。
ひやりとした。
「わたしを、殺さないの」
「楽しめもせず、終わりにするのはいや」
マリオンはほほえみのまま、断言する。「絶対にいや」
「わたしの苦しみが、あなたの娯楽ということ?」
「そうよ。あなたはまだ何も知らない。知って苦しむの。それが必要よ。知って苦しみ、そのあとで喜びを知る。喜びを知ったあなたを、わたしは絶望の淵に叩き落として、終わりにする。だけど――わたしたちは終わらない。終われない。わたしたちにできるのは、『区切る』ことだけ」
「あなたは何を知っているというの?」
エンジュはにらんだ。「あなたは……だれ?」
マリオンは答えなかった。
代わりに、大勢の足音が響いてきた。岩穴の奥に光がともり、その奥から光の群れが近づいてくる。光はまずマリオンをとらえ、闇のなかにその姿を浮かびあがらせた。
穴の奥から顔を出した若いメサウィラ兵が、薄闇の中の赤い瞳と金の髪を見て、反射的に痙攣した。
「王女殿下! そんなところで何を……いえ、それよりも先刻パンタグリュエル将軍が」
マリオンの微笑が消えた。
「下手人はそこに。ティンダルの生き残りだ。すみやかに捕らえよ」
「は? ティンダル?」
言いながら、兵士は松明をかざす。しかし、そこには黒焦げの岩壁しかない。
「帝王の親友を殺した娘だ。捕らえて帝王にさしだせ」
要塞を包囲せよ、とマリオンは命じた。
なかば落下しかけながら、エンジュはルルの首にしがみついていた。
腕に力が入らない。そのくせ、力を奪うばかりで何の役にもたたない涙が、次から次に頬を伝い、深い穴の底へ吸いこまれていく。
(ザイウス……ユーダ……フリッツ)
何もできずに、ただ奪った。
それなのに、戦えない。奪った先に行きつく場所だったはずのマリオンをまえに、力が出ない。
それなのに、まだ生きようとしている。メサウィラ兵の到来を察知するやいなや飛びこんできたルルに、立てもしないのにすがりつき、こうして岩壁を駆けのぼっている。
(まだ何もしていない)
気を抜くと楽になろうとする腕を、エンジュは叱咤した。(何もしていない。何をすればいいのかも、わからない)
ザイウスたちは、知っていたのだろうか。エンジュが何のために生きていて、どこへ行こうとしているのかを。
けれど、彼らにそれを訊くことはできない。
「ルル。もう少しだから……」
大トカゲはエンジュという荷物を背負い、岩肌を踏みしめるように進んでいく。
ザイウスの最後の表情がエンジュの脳裏によぎり、一瞬、手を離しそうになった。しかし、終わるわけにはいかなかった。
最後のひと息とルルが跳びあがり、要塞の頂上に立った。あたりは明るくなっており、イリルアンの周囲を見渡すことができた。
どこまでも広がる、〈草の海〉。
曇りの朝のやわらかく湿った風が、あたりを包んでいる。
ここで立ち止まることができたら、どんなに楽だろう。しかし、降りなければならない。またひとり、見えないものを探しにいく。指先に、ルルが頭で触れてきた。
「そうだね。ルルとふたりだね。……一緒にいてくれて、ありがとう」
ルルの背に飛び乗った。トカゲは急峻な岩にむかって飛び、跳ねながら滑り降りていく。岩山のふもとにいる兵士たちが、滑走してくる大トカゲに気づき、騒ぎだす。
一斉に、矢が放たれる。エンジュの指示がなくとも、ルルはその巨大だが柔軟なからだをくねらせ、巧みに矢をかわしていく。矢の雨のなか、エンジュは地上に舞い降りる。
降り立った場所から、歓声とも嘆声ともつかぬ声が起こり、直後、切り裂かれた人々が地に伏した。声はどよめきに変わり、次いで悲鳴に変わる。
(死なないで)
今はただ――叫びたいだけなのに。(死なないでほしかった)
しかしからだは動く。
――簡単ね。……
あの日、マリオンは笑った。
わかりたくないのに、わかってしまう。
耳に届くのは、自分の呼吸の音だけになった。吐く、吸う、吐く、吸う。右手を前へ、左手を振りあげる。億万人が敵であろうと。手足をうごかす、それしかできない。
吐く、吸う、吐く、吸う。悲鳴に意味なんてない。ただそこにあった気配を、エンジュは消し去る。それをくりかえす。
もう充分に殺した。それなのに、もっと、と何かが騒ぐ。
(ティンダルの血なのか)
エンジュはからだの熱に促されるままに、駆け、飛んだ。
(マリオンと「同じ」だからか)
メサウィラの隊列を分断し、切り捨てる。ひとつの隊を葬ったあとは、また別の隊へ。
(もっと。もっともっともっと)
「……いや」
エンジュは喧噪の外でみつめている黒い眼の親友を、振りむいた。
「いや。冷まして――」
大帝国たるメサウィラは、次から次へと新たな隊を投入してくる。昂ぶりを冷ます間もなく、エンジュは戦いの渦にひきずりこまれた。抜けだすことも許されずに、渦の中心でエンジュは舞いつづける。トカゲの眼は、相も変わらず揺らがない。
いつまで舞いつづければ、許されるのか。どれほど血を流せば、終わりにできるのか。
気がつけば、追いかけてくるものさえいなくなり、血の海のなかで四枚の刃を引きずって歩いていた。鋼の糸は放たれたまま、白銀色に光る刃は、血にまみれて、なお曇らず。
「……神々の御世、」
エンジュは切れ切れに、口ずさむ。
