06. ハートブレイク - 2/5

 イリルアン要塞が陥ちた。
 それは、エンジュたち一行が、いまだにその地に到着していないうちのことだった。
 反メサウィラの旗のもとイリルアンにほど近いサーナンデの街に結集しつつあった戦士たちは、落胆した。サーナンデにたどりついた一座は、街に入るや、そこに流れる失望の空気を察知した。
 一座の大半は安堵した。ひとたびイリルアンに入りこんでしまえば、勝敗が決するまで、入りくんだ要塞を脱出することは困難だ。イリルアンが陥落したとなれば、逃げ場のない戦場を回避できたわけで、安堵の吐息をもらすのも当たり前だった。
「戦いは終わった。ここに俺たちの食い扶持はない」
 ユーダとリアンが相談しているのを、エンジュは何もいわず見ていた。
 深夜、密かにサーナンデの街を離れ、外に待たせておいたルルを呼びにいくと、トカゲはすぐ立ちあがった。
「やっとユーダたち、あきらめてくれたみたい。またふたりきりだね、ルル。マリオンのこと覚えてる? わたしを彼女のところへ連れていって」
 首すじをなでてやり、手綱をとった。
「自信はないの。だって、わたしは一度もマリオンに勝てたことないから。戦ったことすらない。だけど戦う」
 ぽんと首すじをたたく。人っ子ひとりいない〈草の海〉の夜を、巨大なトカゲが前進していく。
「静かに、静かにね」
 市中の宿で眠る一座の連中が、今さらエンジュに気づくことはないだろう。けれど、エンジュはそういわずにはいられなかった。
 あのおせっかいのことだ。万が一気づけば、また意地になってイリルアンまでついてきかねない。ユーダたちはなんでも与えようとする。エンジュには何もあげられない。それをわかっていて、与えようとする。エンジュは彼らをおいていくしかない。
 イリルアン要塞は、メサウィラによって焚かれたのだろう、大量の松明によって赤く照らされていた。遠目に赤い光におおわれた岩山が見えたとき、エンジュは歌をくちずさもうとして、やめた。逃げられない戦いが、目の前にある。
「ルル、連れていって」
 黒い眼がうごき、前方の岩山へとむけられた。力強い足で草地を踏みしめ、走りだす。中にいるメサウィラ兵に気づかれれば、戦いになる。マリオンのところにたどりつくまでの道をふさぐものは、倒す。
 エンジュはルルの背中に立った。こうして何度も、戦場で刃を振るい、なんのかかわりもない敵兵を倒してきた。
 ――この刃は、マリオンのため。
 自分の呼吸の音を聴く。吐く。短く吸う。吐く。バングルに巻きつけた鋼の糸を解き放つ。息を吸いこみ、夜の闇のなか、鋼の糸を引き戻す。
 ――戦える。
 遠くで鬨の声があがった。ルルと突き進むエンジュをこちらに残したまま、戦いの火の手があがったのは、要塞のむこう側からだった。
「どういうこと?」
 ひとりごちて、だが足はとめない。だれも殺さずにすむのなら、そのほうがいい。用があるのはマリオンだけだ。
 まさか、と脳裏によぎる。けれど今は――
「ルル!」
 エンジュはアルバ・サイフをバングルに巻き戻し、ルルの背に腰を下ろす。
 眼前に、黒い絶壁が迫った。
「行って」
 エンジュのかけ声と同時に、ルルは岩肌にとりついた。トカゲの足が垂直な壁をものともしないのは、彼が手乗りだったころとなんら変わらない。
 大トカゲはエンジュを背に乗せたまま、壁を駆けのぼっていく。自分の重さが、エンジュにのしかかってきた。強い力で地面に引き寄せられているかのようだ。
 ルルと同じ身体機能をもたないエンジュは、彼の首にしがみついているしかない。腕だけではこらえきれず、両手足でルルの胴体にかじりつく。
 ルルにもいつもの余裕はなかった。必死の体で垂直な壁を踏みしめ、一刻の猶予もないとばかり進む。本来、ルルの体重だけなら何も問題はない。エンジュは荷物なのだ。
「ごめんね」
 エンジュは、額をルルの背中に押しつけた。なでてやりたかったが、エンジュも自分の体重を支えるだけで精いっぱいだ。祈るように、岩壁の上をにらむ。
 どこまでのぼれば頂上にたどりつくのか。あまりにも遠く思える場所から目を逸らしつつ、エンジュはひたすらルルにしがみついていた。
 また頭上を見やったとき、
「上が――頂上が! ルル!」
 壁のむこうに、星がきらめいていた。その空は、かすかに赤らんでいる。
「さあ、行こう」
 ルルは少女の声にこたえるように、弾みをつけて壁の上へ飛びあがった。
 星空に、飛びこんでいく。
 ところが、そこで待っていたのは、希望でも、少女が望んだ戦いでもなかった。
「……エンジュ」
 男は岩壁のうえにたたずんでいた。大柄なからだを甲冑とメサウィラ風のマントで包み、大剣を胸の高さに掲げたまま、微動だにしなかった。
 顔の大きな傷が、星と火とに照らされて光ってみえる。一見きびしくみえるが、もの静かでやさしいまなざしは、今もそのままだ。けれど刺すように鋭い眼の光は、エンジュは一度も見たことがなかった。
 ルルは壁のうえに降り立つ。エンジュは自分のからだの重みから解放され、ルルの背中の上で体勢をととのえた。
「あなたを待っていた。イリルアンの構造上、あなたはここをのぼってくると思った」
「ザイウス。お願いです。わたしのまえに立たないで」
 あなたを倒さなければいけなくなる――エンジュはその言葉をのみこんだ。
 けれど男は、いわずとも理解したというように、大剣の鞘を払う。星の光を浴びて輝く刃はあまりにも見事で、男がどれほど権力者に近い存在かを如実に示していた。
「私は帝王の尖兵だ。帝王の名代であるマリオン王女のもとに武装してむかうあなたを、放っておくわけにはいかない」
「マリオンはわたしの敵です。マリオンと戦う。わたしはそれだけで生きているの」
「マリオン王女があなたのすべてだとは、私には思えない。あなたは……」
 ザイウスは口をつぐんだ。確固たる意志で掲げられた大剣が、わずかにたじろぐ。
「……わたしは?」
 暫時、ザイウスから答えは返ってこなかった。
 沈黙が二人を包み、岩山のむこうでくりひろげられている戦いの喧噪が、近くに感じられた。
「あれは、あなたのための陽動か」
「そうだと思います」
「あなたはあれを望んでいない」
「でも、わたしには彼らを止められません。わたしはわたしの行くべきところへ行く。彼らは彼らのしたいことをした」
「私も同じだ」
「だめです」
 少女は頭を振る。「あなたは生きてください。セレステが悲しむ。あなたはわたしたちに巻きこまれないで」
 そう言ったとたん、はっと息をのむ。自分はいま何を言ったのか。
「わたしたちに巻きこまれないで」? 「わたしたち」――わたしとマリオン? ……
「おかしなことをいう。あなたと王女が同じものだとでも?」
「……」
 なぜ自分がそんなことを言ったのか、わからなかった。たしかにマリオンとは同じ場所で生まれ育った。かたやメサウィラの王女として生まれ、奴隷として放逐された娘。かたやティンダルの一の戦士の子として生まれ、その義務から逃れようとして一族から疎外された娘。ふたりの娘は別々の場所で生まれ、同じ場所に来て、決別した。
 しかし今、エンジュはマリオンを求めて追いかけていく。マリオンもまた、あの日エンジュに言ったのだ。
「……ものごとのはじまりから、わたしたちは敵同士だと」
「王女があなたにそう言ったのか?」
「わたしにも、意味がわからなかった」
 ――そのように、わたしはつくられたのだから。ねえ、逃げなさい。あの歌を知る限り、あなたは追われる。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、もっと強くなりなさい。強くなったあなたを――わたしが殺すわ。……
「今は、わかる気がする」
「王女とあなたはちがう。断じてちがう」
 ザイウスは言い切った。ザイウスにはわからないとエンジュは思う。エンジュとマリオン、この世界でふたりにだけわかること。
「あなたには見えるか? このイリルアンが」
 彼にしては大仰に振りあげられた手が、背後を示した。そこには、深い縦穴がひろがっていた。
 岩山の中心に、あたかも穿たれたかのような、深い縦穴がある。底は見えない。
「あなたは、このことを知って、ここにのぼってきたのではないのか」
「ただ目の前の岩壁をのぼっただけです」
「どうしてそんな命をむだにするようなことを――いや、それはいい。これは通風口、この岩の要塞の命綱だ。イリルアンは深く掘られた蟻の巣の要塞。しかし、空気を循環させる仕組みがなければ、人間は生きられない。その要がこの通風口」
「黒い……?」
 エンジュは見たままを口にした。深い穴は、壁が黒かった。穴の中にはところどころ明かりがともされていて、岩壁自体が黒いのだとわかる。
「……マリオンが……?」
 その名前を、ぽつりとつぶやく。ザイウスが見せたがっているのがこの黒い壁なのだとしたら、誰がこの場所をこのようにしたのか。
「王女とあなたは、たしかに似ているところがある。イリルアン攻略時、王女も真っ先にここにのぼってきた。ここから中に、火を投じた」
「――」
「イリルアンが陥ちるまで、そんなに時間はかからなかった。ひとりの生存者も残さずに、イリルアンはメサウィラに下った」
 脳裏にあのティンダルの光景がよぎる。血にまみれた花嫁衣装と、火を放たれた家々。
「王女は残忍で、アルキスさまがお目にかけるにはまるで値しない。あなたとなど、断じて同じではない。あなたは、やさしいから傷つく」
 そう言って、ザイウスはほほえんだ。「私を傷つけることで、あなたは傷つく」
「どうして笑うの?」
「どうして? うれしいから笑うんだろう。セレステはいつもわかりにくいというが、私もうれしければ笑う。うれしいほどのことは、そんなに多くない」
「わたしが傷つくのが、うれしい?」
「そうだ」
 男はふたたび大剣を持ちなおし、エンジュにむけた。「あなたはただ私を通りすぎ、去っていく。ほんのひっかき傷だとしても、傷があるあいだは、あなたは私を忘れないだろう。この機を与えてくれた王女とわが帝王に感謝する」
「やめて。わたしはあなたに生きてほしい」
「それは私の望みではない」
 次の瞬間、男が崖のうえで躍動した。
 みずからの足もとすらかえりみない一撃だった。エンジュも飛んだ。
「セレステはどうやって生きていけば? そんなことのために、あの子を放りだすの?」
「妹は賢明だ。私よりもずっと。どうすれば生きていけるか、妹は知っている。願わくば、あなたが私を通りすぎたあとも、友人としてふたたびわが家を訪ねてくれることを。妹も、きっとあなたの力になるだろう」
 ――どうして?
(どうして、あなたたちは)
 視界の端に映る赤い空。
 せめて、その炎の熱を感じられたらよかったのに。しかしそれは、遠い戦火の名残でしかない。
「どうして?」
 と、男は言って、まだ笑っていた。
「簡単なこと」
 重すぎる剣は、エンジュのような身軽な戦士には、遅すぎた。振り払われた刃は、空を切り、風となって少女を煽るだけだった。
「あなたは、私の星」
 あ、というつぶやきが、少女の口からもれる。
「あなたの涙が、私の王冠の石」
 きっと、下で戦っている者にとっても同じなのだろう――そう付け加えた男の手をつかんだのは、とっさにのばされた少女の手ではなく、アルバ・サイフから放たれた鋼の糸。
 命をつなぎとめるのではなく、断ち切る糸。
 ほほえみのまま、黒い穴の底へ吸いこまれていく。
「いやっ……」
 一瞬で。永遠に失われる。
 ひとたび失われたものは、決して帰らない。
(泣くことぐらいしか、できない)