嵐がきた。――嵐が去った。
気がつけば、暗闇の中ひとりたたずんでいた。
嵐さえも、自分を置き去りにしていく。今の今までそこにあったはずの玉座はどこにもなく、支えとてなく、立ち尽くしていた。
泣きも叫びもしなかった。恐怖は感じていたものの、それでも身じろぎひとつしないよう教えられていた。孤独を痛みと感じないよう教えられていた。
だから、黙ってその場で立っていた。誰かが何か与えてくれるのを、ひたすら待っていた。自分から行動するということを、誰にも教わらなかった。教わったことは、孤独を孤独と感じず存在しつづけること、まわりの問いかけに「諾」と答えること、生きるために食べて眠ること、それだけだった。
身じろぎもしないうちに、時は流れていく。その場所には、日の光も風のそよぎもなかったが、空腹が時の経過を教えてくれた。けれど、それも耐えるよう教えられていた。
あるいは、自分はもう死んでいるのかもしれないとも思う。嵐が自分たちを打ち据え、自分の命はとうに奪われたのかもしれないと。
「諾」と答えるだけで、会話ともいえない会話しかしなかった人々も、あのとき多くが死んでしまった。あれほど多くの人が死んでいったのに、自分だけ安穏としていられるわけがない。人々が死に絶え、最後に自分が玉座から追い落とされる、その日はくる。
知らぬ間に追い落とされ、命を奪われ、命を奪われたことさえ気づかなかったとしても、意外ではなく、悲しくもなかった。自分にとって玉座は所与のもの、おのずから自分のものであり、だからこそ一度も自分のものだったことはなかった。
ただ、
――あなたをお守りすることができずに、先にまいります。
ひざまずき、うなだれた人の涙が、
――夢をみてしまうのです。あなたがただの子どもで、平凡な子ども時代をすごされたならと。
ひざまずき、笑い泣く人の涙が、
――どうか、お許しを。……
自分の足もとに滴る、その光景が、闇の中ひとり存在しつづける心を、ちりちりと焼く。
「お願いです」
闇のなか、声が響いた。自分の声だった。「あなたがたは、どうか幸せに、生きのびて、生きのびてください」
願いが叶うなら、何も知らず永遠に闇の中に住んでもかまわない。乾いた心を涙でうるおしてくれた人々が、見知らぬ土地で幸せでいてくれるなら、ひきかえにどんな苦しみでも堪え抜いてみせる。
「わたしは、死んでいるのか?」
強く、問いかける。「教えてくれ、わたしは死んでいるのか? わたしのもとを去った人々は、どうしているだろうか」
――見たい。
あの人々が、幸福に笑う姿を、見たい。
闇の彼方へ、手をのばす。
――願いを叶えてくれるのは、誰?
* * *
朝もやのむこうから、ドン、ドン、と大地を突く音が響いてくる。
少年少女の列が、そろいの黒袴を着て、杖で地面を突きながら行進してくる。うつむき、誰ひとりとして口をひらくことのない沈鬱な行列は、さながら葬列のようだった。
人々は行列に気づくと、その場に膝をつき、頭を垂れて見送る。だが、列の中から人々を振り返る者はない。ひたすら沈黙のまま進んでいく。手にした杖で、絶えず大地を打ちながら。
それは、この地に眠る死者を呼び覚ます音だった。祝祭の時の訪れを告げる音。それは、祝祭のあいだ、ひっきりなしに続く。
そう、ひっきりなしに。もちろん人力で。
(……つ、疲れた)
列のひとり、シフルは思う。(というか、もう手の感覚がない)
シフルたち一行が地面を突きはじめたのは、ほんの一時間ほど前。儀式はまだ序盤である。しかし、地面を突きつづけるという不慣れな行為に、たぶんよけいな力が入っているのだろう、ほどなく右手が痛みはじめた。気づかぬふりをしていたら、いつしか感覚がなくなった。
しょっぱなからこれでは、先が思いやられる。が、実のところ、先を思いやる暇もない。儀式の渦中にいる限り、地面を打ちつづけなければならない。そのうえ、
「《シフルさま》」
背後で、ささやく少女がいる。「《今、タイミングずれました。まわりをよく見て合わせてください。わたしたち慈善園はアグラ宮殿の代表として、あるべき姿を体現しなければならないんですから》」
「《はいっ、すみません》!」
「《声落として》」
「《はい》!」
同じ黒袴を着た少女女官、メアニー・イーリ。彼女はとっくの昔に慈善園を卒園しているのだが、今日は慣れないシフルたち留学メンバーを補佐するため、慈善園生の列に加わっていた。監視するため、といったほうが正確な気がするが、とにかく彼女が「皇帝の尖兵」としての振るまいを「補佐して」くれるので、シフルは痛む手をさすることも許されない。
「《ほら、またずれました。気を抜いてる時間があっちゃダメなんです。少なくとも、宮殿の外で人々の目があるあいだは。いいですか?》」
「《はい》!」
それにしても、メアニーが自分ばかり注意してくるのは何なのか。たしかに、となりにいるメイシュナーも、そのむこうにいるセージもルッツも、周囲の慈善園生と呼吸を合わせた杖さばきに余念がない。自分は生来鈍いところがあるので、問題は自分にあるのかもしれない。
しかし、だ。
「《ほらほら、勝手に杖のもちかた変えないで! 儀式は一から十まで決まりのとおり遂行しないと意味がないんです。手が痛いのは忘れてください。ただ突くんです。そのうち慣れて、痛みなんかどうでもよくなりますから》」
「《はい》!」
ただでさえ慣れない、おそらく慣れていても疲れる儀式だというのに、こうも一部始終見張られて細かい動きを逐一指摘されるのでは、ますます疲れる。アグラ宮殿に来てから疲労の連続だが、とりわけ今日はすさまじいことになりそうだった。
夜明け前、シフルたち四人を含む慈善園生は登園した。
各自縫いあげた黒袴を着こんだ園児たちは、いつも以上に沈黙を守っていた。すでに休戦記念日の儀式は始まっているからである。
園庭に整列した生徒たちに、小さな灯火が近づいてくる。灯火を掲げるのは女官ファンルー・イーリ、その背後に皇女マーリと婿オースティンがいた。黒一色の礼装で登場した皇女は、厳粛な面持ちで口をひらく。
「《ラージャスタン帝国皇帝ザーケンニ七世陛下――創り主たる炎よ、我らが皇帝(ラージャ)を嘉(よみ)したまえ――の命により、わたくしマーリ・マキナ・ラージャスタンは、皇帝陛下の名代としてあなたがた慈善園の子らに命じます。あなたがたは宮殿の僕(しもべ)として、この十七年めの休戦の儀礼を果たしてください》」
返事の代わりに、少年少女は杖で地面をひと突きした。
そのまま、ドン、ドン、という例のリズムに移行し、滑るように休戦記念日の儀式が始まる。シフルも事前に練習した甲斐あって、タイミングを外さず杖を鳴らすことができた。皇女夫妻に見送られて慈善園を離れれば、最初の関門は終わり。あとはひたすら杖で地面を突きながら移動し、それぞれの宗教建造物で儀礼をくりかえすだけ。だけなのだが、問題はそれが早朝に始まり、翌早朝まで続くということだ。
慈善園を出た当初、シフルは意気揚々と杖を突いて歩いていた。背後に控えるメアニーも、無言で儀式を遂行していた。
宮殿の庭園群を越えて、長い廊下をすぎ、地下水路に入った。小舟に乗りこめば、杖はしばし休憩。ギッ、ギッ、と船頭が操る櫂の音とともに、小舟は水の上を滑っていく。最初にアグラ宮殿入りしたときに通った地下水路だ。ほどなく、小舟に乗る全員で手をつなぐよう指示が出て、火(サライ)の結界を通過した。
結界を過ぎれば、すぐに宮殿の外である。小舟の一群が、悠久なるジャムナ川へと滑り出た。
(――あ)
シフルは、少し白みはじめた空を振り仰ぐ。(外、だ)
宮殿の外に出るのは久しぶりな気がして、指折り確かめる。数えてみれば、久々といっても一か月程度だった。プリエスカではいつも試験に追われていたせいで瞬きの間だった一か月が、ラージャスタンでは一年はたったかのように感じる。
何もかもが目新しいことばかり、慣れないことばかりの濃密な一か月。あの日、はしゃぎながらジャムナ川を渡ってきた自分と、今また出ていく自分は、まるで別人のようだ。
昇級試験と勉強をくりかえす理学院生の生活から、皇帝の尖兵になるための訓練を積む慈善園生としての生活、皇帝の賓客として皇女夫妻の近くで暮らす生活へ。
(儀式を終えてまた宮殿に戻ったら、オレたちはまた何か変わっているんだろうか)
――オレたちが変わっていくのか、それとも……。
何もかもが動いていく。変わっていく。自分で意識しても、しなくても。きっと、変わっていった先に、なんらかの答えが待っている。
それなら自分は、変わっていくほうを選ぶ。
小舟を降りれば、ふたたび杖の出番である。あとは宗教儀礼の時間を除いて、絶えず地面を叩きつづけなければならない。移動は最初の舟以外すべて徒歩であり、慣れないシフルたちは脚力をも試されることになる。
宮殿を離れ、ファテープル市内の森の街道をホラーシュ地区にむかって行進する。宮殿の周囲は、皇都ファテープル市内とはいっても、広大な常緑樹の森に包まれており、薄暗い森を行く時間は見飽きるまでつづいた。おまけに、舗装路を杖で叩きつづける行為は手首に響き、関節をおかしくしそうだった。
(馬車に乗ってきたときは、あっというまだったのに)
シフルは早くも疲労に喘ぐ。(あれは熊を振り切れるぐらい速かったもんなあ。こんな集団で、じりじり地面叩きながらじゃ、どんだけ時間かかるんだ?)
常緑樹の合間から見る空は、完全に白くなっていた。今は雨季の真っただ中、ラージャスタンの暦では《雲の月》と呼ばれるだけあり、まごうことなき曇り空である。この時期の《ホラーシュ詣(もうで)》は、雨に降られなければかなりの幸運だと、タマラは言った。
(このうえ雨まで降られたら! うわー……)
シフルは祈るような気持ちで曇り空を見上げた。とたんに、杖のタイミングがまわりとずれてしまい、この日最初の小言を受けるはめになった。その後、シフルは、儀式に参加しているあいだ、つまりほぼ丸一日にわたってメアニーの小言を浴びつづけることになる。
シフルたち慈善園一行がホラーシュ地区に到着したのは、正午に近い時間帯だった。もっとも、曇り空は変わり映えせず、からだの疲れが時間の目安だ。早朝に起床して以来、飲まず食わずで何キロも歩いてきたのだ。もちろん杖も突きっぱなし。
ホラーシュ地区――「正しく」訪れるのは初めての場所。けれど、密かに一度訪れた場所だ。しかし、そんな感慨もわずかになるほど、すでにシフルはくたびれていた。
見覚えのある寂れた街並と、行き交う黒袴の人々。特別な祭りの日だけに、あのときシフルが見た光景よりも人口密度が高い。地区の様子を視界の端に入れつつも、いまシフルの頭を占めるのはただひとつ。
(……腹へった)
食べ盛りの重大事項である。自分自身も予断を許さないが、食いしん坊のメイシュナーのほうは、もはや振り返れない。誰もが無言で、杖と足音だけが響く空間では、腹の音は激しい自己主張となる。明らかに響き渡っているのにメアニーが何も言わないのは、生理現象だからか、はたまたシフルしか監視する気がないからか。
幸い、ホラーシュ地区に入ってすぐ、慈善園生の列は広場に建てられた天幕内へと導かれていった。全員が巨大な天幕の中におさまったあと、入り口はぴったりと閉められた。
「《休憩です。楽にしてけっこうですよ。少しなら声も出してよろしい》」
タマラがそう号令するが早いか、シフル、メイシュナー、ルッツの三人は崩れ落ちる。シフルは空腹と疲労のあまり、メイシュナーは空腹、ルッツはおそらく疲労だろう。セージひとりが余裕の体で、シフルのかたわらに腰を下ろし、黒袴の裾をさばいた。
「《きっつ》……」
「《これはなかなか》……《厳しいものがあるね》」
「《そう》?」
涼しい顔のセージが、かなりうらやましい。「《たしかに、朝食抜きでこれだけ長距離の行進をするのは楽じゃないけど、実家じゃ収穫期に食事の暇がないなんて珍しくないから》」
うらやましいというべきか、農村育ちの境遇に恐れをなすべきか。そんな判断力もすでに残っておらず、シフルはとりあえずうなずいておいた。
メアニーが四人分の朝餉を運んできた。もらった草の包みを開くと、米を丸めた携帯食だった。周囲の慈善園生たちは、いっせいにかぶりついている。食べたことのない料理だが、躊躇している余裕はない。シフルたちもあっというまに平らげてしまった。草の味と匂いがしたものの、ごく淡白な味だ。スープ入りの器も渡され、四人はようやく人心地ついた。
正直、今日はこのへんにしたい気持ちでいっぱいだった。が、今日の行事はそんなに甘いスケジュールではない。朝餉と用足しを終えた一行は、容赦なく天幕の外に追いやられていく。外には一般の巡礼者もいて、シフルたちは疲れなどおくびにも出さず、行進を再開せざるをえなかった。
休戦記念日第一の儀礼は、ラージャスタンの古い宗教である女神信仰。ホラーシュ地区でもっとも古い神殿で執り行われる。言い換えると、かつてホラーシュ地区は女神の聖地だった。女神の名はアタ・ラジャ。ラージャスタン《皇帝のおわしますところ》のラージャ(皇帝)の語源と関連があるとみられるが、今となっては定かではないらしい。
シフルたちはアタ・ラジャを目覚めさせるべく、杖で地面を叩きながら神殿に近づいていく。神殿は今や廃墟といっても過言ではなかった。創建当時は黄金に覆われていたと伝えられる列柱は、今は半分が倒れ、朽ちるがままになっている。《ホラーシュ詣(もうで)》に訪れる巡礼者の安全のため、中心を通る参道だけは整備されていた。
屋根すら現存しない祭壇の上には、鮮やかな赤い花々と羊が一匹、横たわっている。シフルたちの列はその前で停止した。
(うわ、あれって……)
本で読んだことはあるが、現場に立ち会ったことはない。戦々恐々としているうちに、神官「役」の男――今は女神信者は存在しないとされる――と補佐役の園児が、祭壇に近寄る。少女だけの儚げな合唱が始まり、シフルが思わず目を覆うと、次の瞬間にはもう羊の首は落とされていた。
血入りの杯を、前列の園児があおる。シフルたちまでは杯はまわってこない。心底ほっとしたが、どういう顔をしたらいいのかわからず、仲間を見やる。メイシュナーとセージはポーカーフェイスを保ち、ルッツは「野蛮人め」という顔だ。珍しくルッツを見て安堵するシフルだった。
しかし、いつまでもひとつの儀式にこだわってはいられない。アタ・ラジャ信仰は、ラージャスタン征服史のはじまりにすぎないのだ。女神信仰を奉ずる小国ラージャスタンは、隣国シキリを支配下においたとき、新しい信仰に出会う。信仰の変遷の歴史こそ、ラージャスタンの歴史そのもの。
だるい手を叱咤して杖を突きつつ、シキリの宗教建造物に向かう。足も重いが、これも無視。メアニーがときどき小言をとばしてくるが、これはなんとか対応。どんなに疲れていても、アグラ宮殿の代表、かつプリエスカの代表として、恥ずかしくない挙止を示さなければならない。食べたばかりの朝餉を頼みに、姿勢を正し、杖を正しく打ち鳴らす。行列と一体になって、寂れた街中を進んでいく。
シキリの聖人廟は女神神殿のそばにあるという話だったが、敷地が広すぎて、隣といってもえんえん歩かされた。参道を出たあと、神殿の領域を抜けるまでゆうに十五分。
聖人廟に一人ひとりが生花を捧げたあとは、チャルバグの礼拝堂へ。これは聖人廟が小規模だったおかげで、三十秒で到着。チャルバグのあとも、小規模な宗教建造物が続いたが、パチアの小さな祭壇が通り沿いにつらなっているのを目の当たりにしたシフルは、思わず嘆息する。全十四もの祭壇すべてに、全員が一か所ずつ線香を供えなくてはならないからだ。
線香を供えるごとにひざまずくのは、新手の筋力トレーニングだった。しかも、とうの昔にシフルの筋力は活動を拒んでいる。
いつ終わるともしれない反復行動。耳と手どころか、すでに全身に沁みついた、杖のリズム。足の重さにもとうの昔に慣れ、メアニーの言ったとおり、痛みももうわからなくなっていた。とはいえ、感覚が失われただけで疲労は消えたわけではないので、ときおり何かの拍子にタイミングを外しては、メアニーに小言をいわれつづけた。
宗教儀礼も、同時にいくつもこなしていると、ひとつひとつの区別がつかなくなってくる。新参のプリエスカ人にまかせられる内容のものがないのか、留学メンバーだけで何かさせられることはなく、周囲の生徒を真似していればよかった。みなが歩くときに歩き、みながひざまずいたら一緒にひざまずくか、順番にひざまずき、みなが歌えば歌う。何か自分がからくり人形もでもなったかのような感覚。
気がつけば、日は暮れて、夜も更けていた。日没後にまた天幕に入って休憩する時間が与えられたが、シフルたちは黙って座りこみ、黙って食事を口にするだけだった。よけいなことをすれば、儀式をやりきる前に昏倒しそうだった。セージはやはり通常運転だったが、極限状態の少年三人を前に何も言わなかった。
天幕を出ると、杖に巻くための布が配られ、タマラがそこに油を垂らした。
「《炎よ。わたしたちの道行きを照らして》」
というひと声は、メアニーだ。彼女の呼び声で、慈善園生全員の杖が一瞬にして松明に変わる――杖の先端、布を巻いた部分に火(サライ)が宿る。
暗闇のホラーシュ地区を、松明の行列が行く。日中と同様、一定のリズムはやまない。ドン、ドン、と地面を打ち鳴らす音は、地区内に変わらず響いた。
しばらくは一般巡礼者の松明もちらほら見受けられたが、日付が変わるころになると慈善園の列以外はほぼ絶えた。それでも行列の足は止まらない。
シフルには、もはや今どのあたりにいるのかもまるでわからなかった。同じところをぐるぐる回りつづけているといわれても、納得しただろう。
とうとう空が白みはじめたとき、シフルはたしかに同じところをずっと回っていたわけではないと理解した。
ぼんやり行進していると、列の前方から、ひとつひとつ火(サライ)の明かりが消えていった。そのころには足もとがかろうじて見えるようになっていたので、てっきりメアニーが火(サライ)を帰したのだと思った。が、彼女を振り返ると、薄闇の中で少女はかすかに頭を振った。
シフルの松明もまた、消えた。メアニーも、ほかの三人も。振り返ると、後列の園児たちの松明も、順番に消えていた。誰ひとりとして、それをいぶかしむ様子はない。
ここは下級火(サライ)が存在できない領域なのだ。強大な存在がこの場所を隈なく支配しており、小さな火種はひれ伏し去るほかない場所。
(そうか)
シフルはひとり、理解する。(ここ、なんだな)
――ここに、おまえはいたんだ。……
薄明の空。
その下に、シフルの身長ほどの高さのある岩陰が見える。行列は、ドン、ドン、と杖を鳴らしつつ、岩陰に近づいていく。岩を目の前にして、杖はいっせいに動きを止めた。地面を叩く音もやみ、静寂が訪れた。
少しずつ朝日が昇り、岩陰に光を投げかけていく。徐々にあらわになっていく岩肌は、花崗岩だった。
岩肌に彫られた溝は、ごく短い文言だ。言語は現代プリエスカ語に似ている。
……〈エルドアのいとけなき王の心、ここに眠る〉
わあ、と最前列の生徒が泣き声をあげた。いきなりだったので、シフルは痙攣する。
「〈王よ、王よ、申しわけございません〉!」
女子生徒はプリエスカ語に似た言葉で叫んだ。少し言いまわしは異なっていたが、おそらく古い言葉なのだろう。
「〈最後までお供することが叶いませず。おひとりで、いずこにおわしますか、我らの王よ〉」
寸劇とともに、前列の生徒たちはいっせいに涙で岩肌を濡らす。
ラージャスタンが最後に征服・分割したエルドア王国は、王が世俗の支配者であり、同時に信仰対象でもあった。王家の血筋そのものがその対象だったために、どんな人物でも関係なく、王として生まれ落ちた者が自動的に王で神だった。
ゆえに、最後のエルドア王は幼い少年であり、混乱のさなかも王城に残りつづけた彼は、最後は誰にも気づかれぬまま姿を消した――おそらく、記録に残っていないだけで、命を奪われたのだろう。
エルドアにはこれといった宗教儀礼がなく、遺体もみつからなかったため、墓ですらない碑文の前で寸劇を行い、悲運の少年王を悼むのが、ラージャスタンの休戦記念日のクライマックスである。
ホラーシュ地区は、エルドア王国の元あった場所とはちがう。ここには遺体もなければ、碑文に使われた岩に何かいわれがあるわけでもない。
けれど、
――ここに、おまえは「いる」。……
そう、今も。シフルは、確信していた。
――メルシフル
女の声に、少年は息を呑んだ。
わかっていても、怖いものは怖い。
薄明のなかで、自分を呼ぶもの。そして、自分を招く、白い手。曖昧な光のなかで、奇妙にくっきりと、その女のものらしい手だけがよく見えていた。
――メルシフル
ひらひらと、手招いている。
「わかったよ」
シフルはうなずいた。「……オレも会いたい。会いにいくよ」
「《えっ、今なんて? というか、ブリエスカ語? というか、儀礼中に私語?》」
はっきりと声に出したシフルを、当然そばにいた少女女官が聞き咎める。
幸い、泣くわ喚くわ大騒ぎの寸劇の最中であり、慈善園生の中で気づいた者はない。
「《……シフルさま?》」
「え? シフル?」
メアニーのつぶやきに、寸劇を見物していたセージが振り返る。
が、そこに見知った銀髪の少年の姿はなく、ただ、ひとり分の列の空白があるだけだった。
