第13話 その手をとって - 3/4

「やっと会えたな。精霊王」
 その人物のいる玉座は、奇妙に背もたれが高かった。あれほどの座高の人間は存在しないから、おそらく王者の威光を表現したデザインなのだろう。しかし、その人物は床に足もつかずにちょこんと座っていて、豪華な椅子のために却って小柄さが際立っていた。
 少年、なのである。
 シフルよりさらに幼い、慈善園だと年少組にあたる年ごろだ。おそらくは十歳前後だと思われる。
 シフルの横をすり抜けて、シビュラが少年のかたわらに寄り添う。夫というよりは、小さな弟を心配して見守るという風情だ。
(これがビーチェの別れた夫、ってことか)
 あまりの幼さに、シフルは最初に声をかけたあと、言葉を失ってしまった。もちろん、外見どおりの年齢ではないことは想像に難くないのだが、そうはいってもやはり時姫と結婚していたというのは信じがたい。
「――メルシフル。メルシフル・ダナン」
 玉座の少年は言った。「ベアトリチェが望み、わたしが望まなかったものよ。わたしたちの領域にあなたが入ったとき、どうしてもあなたの顔が一度見たくなった。ベアトリチェがわたしのもとを去って呪いを受けてでも望んだものが何なのか、知りたくなったのです」
 少年の態度に尊大さはまったくなかった。正妃である女の「あやまち」を許せず呪った人物とは思えないほど、少年の言葉は誠意のようなもので満ちていた。はっきり「望まなかった」といっているのだが、不思議と身勝手な響きは感じられない。
「自分が呪った人間を目の前にした感想はどうだ?」
 シフルは尋ねる。敬語を使わなかったのは、自分を呪った存在への対抗意識からだった。
「本当にベアトリチェに似ている。彼女がまだ絶望を知らなかったころの活力を、あなたはもっている。あなたの名前は彼女の絶望そのものだというのに」
 シフルの名前――中世ロータシア語で《真の無(メル・シフル)》。時姫はシフルを産み落としたその場で赤ん坊にその名を与え、それが彼女の長年望んできたことだと言った。そのことは、ラーガに見せられた時姫の過去の中で、ひときわ印象に残っている。
《真の無》を望むとは、何だろう? 言葉どおりに考えれば、それは「死」ということのように思える。六百年生きた末に、時姫は人生に飽き、死を望んでいるのだろうか。
 そうだとしても、
「それは、オレには関係ない」
 シフルはそうまっすぐに答えた。「ビーチェがどう考えてオレにそう名づけたのかは、オレ自身には関係ない。それに……オレには、あの人がそんなに後ろ向きな人とは思えない」
 トゥルカーナの森の小さな屋敷で出会ったあの人は、どこまでも広く自由で、父や母ベルヴェット、カリーナ助教授といった他の大人たちとは全然ちがった。
「無を望むのは、後ろ向きなことですか」
 少年は淡々と返してくる。「六百年生きた人間が望むものを、あなたは理解できるのですか?」
「それはむずかしいだろうけど……、オレが見たビーチェはそうだった」
「そうですか」
 少年は、外見とは異なる老成した空気をまとい、小さく嘆息した。「想像よりもずっと、ベアトリチェはあなたの母親をやっているようですね」
「えっ?」
「しかしそれでも、あなたの生はベアトリチェの『後ろ向き』から始まったのです。それは知っておいてほしい」
「は?」
 たしかに、この人物が時姫と自分を呪っているのだ。シフルはこのとき、それを理解した。
 一見、少年は時姫のことを理解して受け入れているかのようにみえる。けれど、その実、彼女の行動に判断を下し、マイナスの意味づけをしている。
 呪いのことがなくても、この少年が吐く言葉は時姫を呪っている。
「ビーチェの理解者みたいな顔をしないでくれ」
 と、シフルは告げた。「あなたはビーチェを呪って、ふたりはとっくの昔に別れたんだ」
「別れても、わたしはベアトリチェの理解者です。わたしたちは、人の生きる何倍もの年月を一緒にすごしたのですから」
「はあ?『理解者』が呪いをかけるっていうのか?」
 だんだん腹が立ってきて、シフルは声を荒げる。「――あんたはオレたちの敵だ。ビーチェのことを好き勝手言うな」
「――メルシフル!」
 遮ったのは、明るい森の瞳をもつ女だった。「お願いです」
「シビュラさん、あなただって」
「やめて。……ごめんなさいね」
 そのひと言で、すべてを封じるように、女は言う。シフルは言い足りなかったが、口をつぐんだ。
 一度口を閉ざし、それからまた開いた。
「――呪いを解いてくれ」
 精霊王に言いたかったことは、究極的にはこれだけだった。「オレはただ生まれてきただけであんたに呪われてる。精霊召喚士になりたいのに、三級以上の精霊が呼べないだなんて、ありえない。こんな理不尽は受け入れられない」
 シフルは静かに、けれどひと言ひと言に力をこめていう。
「理不尽」
 精霊王たる少年は、そこだけを反復した。「たしかにそうです。でも、人生に理不尽はつきものでしょう。世界中のすべての人が理不尽な目に遭わないですめば、それはすばらしいことです。しかし、現実にはありえない」
「世界の話なんかしてない」
 シフルは即座に言い返した。「オレたちが受けてる理不尽は、世界中にあるどうすることもできない理不尽のひとつなんかじゃない。あんたが、オレたちにしていることだ。オレと、ビーチェと、あんた、三人だけの問題なんだよ」
 だから、今すぐやめてくれ、とシフルは言った。ビーチェに何か恨み節があるなら、それは直接ビーチェに言えばいいだろ、と口の中でつぶやいたが、さすがにそれは声に出せなかった。
「あんたが今すぐやめるといえば、それで終わる理不尽なんだよ。あんたが理不尽を望んでるんだ。世界のせいにするのはやめてくれ」
 シフルは目の前にいる小柄な少年をみつめた。本当に、なんて小さな少年なのだろう。背の高すぎる玉座の上で、足も届かないのに身じろぎひとつせず座っている少年。髪はシフルたちと同じ銀で、眼は鈍色。その落ちつきはらった眼には、小柄な外見とは裏腹に、想像もつかないような年月が秘められている。
 けれど、その年月の長さと同じだけの何かを、この人物はもっているのだろうか? 年月の長さによって、底知れぬ呪いを抱えただけとしたら? だからこそ、時姫は離れることを選んだのでは?
「わたしは王です」
 それが答えだった。「王たる者、一度下した決断を撤回することはない。ベアトリチェとメルシフル――あなたがたは、これからも永遠に私の呪いを受けるでしょう」
「それなら、なんのためにオレを呼んだ?」
 シフルは問う。「オレに会いたいと思ったのは、なぜ? ビーチェへの復讐なのか?」
 精霊王を裏切り、リシュリューとのあいだにシフルをもうけた時姫への復讐。それがいちばんわかりやすい結論だった。
 しかし、
「王は復讐心などで動くことはしません」
 予想どおり、精霊王は言下に否定した。
「わたしがベアトリチェを呪うのは、人としての心を捨てられない彼女の力を制限するため」
 シフルの質問への答えではない。だが、その答えは、シフルにとっても望むところだった。
「どういう意味だ?」
「ベアトリチェは生来、精霊の愛に浴する者。彼女が生前、ロータシアで精霊召喚学の権威たりえたのも、彼女を愛した精霊の協力あってこそ。彼女のひとりめの息子クレイガーンが精霊の愛を一身に受けた英雄たりえたのも、愛される者と愛される者が結びついて生まれた存在だから」
「……そうなのか」
 精霊王は饒舌だった。シフルの疑問に答えは与えられなかったものの、精霊王の語る内容は世界の謎への答えで満ちている。
「クレイガーンはわたしの与えた使命によく従い、力を尽くしてくれました。その後は彼を生みだした当初の目的どおり、空(スーニャ)の器となりました。彼はそれを理解して自ら生を放棄しました」
「え、それじゃあ」
 ――クレイガーンは自殺したのか。
 セージすら、その可能性は考えてなかった。もちろん、オースティンも、シフルもだ。やはり、英雄が自殺なんかするわけがない、と無意識に考えていたのだろう。シフルたちは、ひとり残らず英雄が救ったラシュトー大陸の子どもなのだ。
 オースティンが求め、シフルが恐れた答えが、これで出た。
(よかった)
 とっさに思ったのは、それだった。(ビーチェが殺したんじゃなかった)
 シフルを父のところにおいていったとはいえ、シフルを雑踏の中でみつけだし、力を貸してくれたのも時姫だ。その彼女が大陸を救った英雄に手を下していたとなったら、これから彼女をどう見ればいいのかわからない。
 シフルとしては安心したものの、この答えはオースティンにとってはどうなのだろう。
「クレイガーンは自殺した、ってことでいいんだよな?」
 シフルは念を押す。
「自殺」
 精霊王はまた、言葉を吟味するように反復した。「それが事実です。が、クレイガーンにとっては自殺ではなかった」
「それってどういう」
「クレイガーンは、自らがより生きるために死んだ。そういうことです」
「……、」
 シフルは言葉につまった。
 また自分の知らない英雄が、そして時姫が、そこに現れた気がした。
 けれど、ひとついえるのは、
「それはクレイガーンにとって、トゥルカーナや子孫の行く末よりも価値があることだったんだな」
「そうです」
「……そっか」
 精霊王の玉座の間に、一瞬の沈黙が落ちた、そのときだった。

 ――シフル

「えっ?」
 聞き覚えのある少女の声だった。
 まちがいようがないぐらい、親しんだ声である。シフルは反射的に耳をそばだてた。

 ――シフル。……

「アマンダ?」
 少年は、声の主の名前を口にした。
「この声、友達に似てるんだけど」
 精霊王に向き直る。「ここってやっぱり、ところどころオレの記憶と空間がつながってたりするのか?」
 ラージャスタン留学の選抜試験で、同席者の目の前の空間にシフルの記憶を展開させた空(スーニャ)の力。あの鮮やかな夕景は忘れられない。
 あれと同じような力で、シフルの記憶とこの場所がつながり、プリエスカでの心残りが声になって現れたのではないか。シフルはそう考えた。しかし、
「似ているのではなく、本人です」
 と、精霊王は告げた。
「は?」
「アマンダはわたしの人形。彼女は今ここで暮らしています」
「へっ? 人形?」
 ――精霊人形。
 シフルは、以前ラーガから聞いた話を思いだす。精霊王は、人間のなかから、しばしば気に入った女性をさらって手もとにおいておく。彼女たちは精霊王に呼ばれるとき以外は意識がない状態なので、精霊人形と呼ばれる。時姫も元は精霊人形のひとりだった。
「……アマンダをさらってきたのか?」
 確かに彼女は疑いようもなくかわいい女の子だ。精霊王に気に入られたとしても、不思議ではない。
「彼女がわたしを呼んだのです。それに応えたまで」
「はあ? アマンダが精霊王のことなんて知ってるわけ……学院では、精霊王のことは教えられない」
 そこまで口走ったあとで、愕然とする。
 ――『精霊王に関する考察』。
 理学院図書館には、精霊王を取り扱う数少ない本が所蔵されている。プリエスカでは精霊王について教育されないとはいえ、閉架図書の貸出を申請すれば、学院生なら誰でも精霊王を知る機会はあるのだ。
 ましてや、シフルは前にその本を借りたことがある。これは自意識過剰かもしれないが、シフルの貸出カードからたどるのが精霊王への最短の道な気がする。
「……アマンダはなんて? あんたに何を言ってた……?」
「誰にも負けない力がほしいと、彼女は言いました」
 精霊王は答える。
「力……」
 アマンダは結局、どこまでも《王さまの学校》理学院の学生だったのだろう。シフルはかつて、アマンダに投げつけられた言葉を思いだす。
 ――ひとりだけ六級火(サライ)呼べたじゃない、学説だって覆した。それなのに、呼べない私たちにそんなことが言えるの?
 あれはまだ、精霊王の呪いを知るまえのこと。あのとき、アマンダがただの「かわいい女の子」ではないということを、シフルは痛感した。
 そして今、この異空間で、そのアマンダがはっきりと立ち現れている。シフルの知らないところで、習ってもいない精霊王の存在を暴きだし、あげく当人を召喚して力を要求する、彼女の執念が。
「アマンダは、自分で望んであんたのそばにいるってことなんだよな?」
「そうです。彼女に教えてやりました。精霊王から力を授かる方法はひとつ。人形の中で頭角をあらわし、このシビュラのように正妃を追い落とせばよい、と。彼女は受けて立ち、自ら人形になることを選んだのです」
 緑の瞳をした現・正妃たる女は、精霊王の玉座のかたわらで、さみしげに微笑む。おそらく、彼女が時姫を追い落としたのではなく、例の一件で空席になった正妃の座に彼女がつけられたということなのだろう。
「でも、それなら」
 シフルはふたたび口をひらいた。「どうしてアマンダは、いまオレを呼んでるんだ?」

 ――シフル。……

「まるで、助けを呼んでるみたいだ」

 ――シフル。……

「アマンダ!」
 声の限りに、懐かしい友人の名前を叫ぶ。「アマンダ! ここにいるぞ!」
 それに対してまた返事があったのを確かめてから、シフルは精霊王に向き直る。
「アマンダに会わせてくれ。アマンダの口から、どう考えてるか聞かないと」
「メルシフル。彼女が自分で精霊王さまを呼んだのは本当です」
 シビュラが口を挿む。胸元でかたく握りしめた彼女の手は、かすかに震えていた。
「別にそこは疑ってません。アマンダは実際そうしただろうと思ってます。でも」
 シフルは女のほうを振り返る。「アマンダが、オレを呼んでる。今、オレを呼んでるんだ。だから、オレはアマンダに会わなきゃ。アマンダ!」
 シフルは駆けだした。精霊王の玉座をすりぬけ、居城の奥へ。
「メルシフル、だめよ! 勝手をしないで」
 シビュラが追いすがってくる。腕を絡めとられて、シフルはたまたま一度会っただけの「友人」にそっくりな明るい森の瞳を間近に直視する。
「シビュラさん。あんた、何なんですか。どうしてそこまで精霊王に義理立てするんですか。見えなかった眼を治してもらったから? それとも本当に精霊王を愛してるから?」
「だめよ。精霊王さまのすることをそんなふうに言っては」
「あなたの言うことは、さっきからそればっかりだ。オレの言葉はあなたに届いていますか? それともわかっていないんですか?」
 シフルは精霊王を魅了したのだろうシビュラの美貌を、至近距離でにらみつける。「『あいつ』がいったいどんな思いであなたの帰りを待っていると思ってるんですか?『あいつ』が――が!」
「だめっ!」
 シビュラの剣幕に、シフルは口をつぐむ。「その名前を口にしてはだめ」
「だから……!」
「――だめだったら!」
 友人の姉は、とりつく島もなかった。彼女がシフルの両肩に手をおくと、あっというまに目の前が真っ暗になった。
《時空の狭間》に戻ってきたと気づいて、シフルは女の手首をつかんだ。
「アマンダに会わせてください。帰りたいと思ってるなら、ここに来たことを後悔してるなら、プリエスカに連れて帰らないと!」
「帰れません」
 シビュラは頭を振った。「妖精の花嫁の伝説で、花嫁が帰ってきたことなんてあった? わたしと彼女は一生ここで暮らします……一生……いえ、永遠に。あなたや弟が死んだあとも」
「嘘だろ」
 シフルは愕然と、伏せられた女の眼をみつめる。
 ちょっとしたいざこざで、シフルたち四人組から離れていったアマンダ。そのまま春休みが始まり、ラージャスタン留学が始まって――まさか永遠に会えなくなるかもしれないなんて、考えてもみなかった。
(そうだ、ユリスは……というか、理学院ではアマンダのことはどうなって……? アマンダの家族は、アマンダの失踪をどんなふうに)
「返してくれ」
 シフルは漆黒の闇のなか、淡い光をまとった女にさらに詰め寄った。手を離せばまたどこに落ちるかわからないので、手首は強くつかんだまま。
「あんた精霊王にいちばん愛されてるんだろ。精霊王に言ってくれ。アマンダはオレたちの大事な友達で、アマンダのこと故郷で待ってる家族の人たちがいて」
「ごめんなさいね」
 静かに告げて、するりとシビュラは手首を抜いた。
 思いきりつかんでいたつもりだったのに、あまりにもたやすく、この空間での命綱を外されてしまった。
「シビュラ! ――精霊王!」
 落ちる。落ちていく。
 友達の行方を知っている女が、遠ざかる。
「アマンダ――!」
 いつか仲直りできると高をくくって、自分のことでいっぱいいっぱいで。こんなふうに隔てられてしまうだなんて、わかっていたら、もっとできることがあったはずなのに。
 次の瞬間、どん、と尻もちをついて、シフルは一瞬息が止まった。
「いっててて……」
 思いきり尻を打ったとはいえ、この程度ですんでよかった。というより、シビュラはそれぐらいわかっていて手を離したのだろう。
「あー……、どこだ、ここ」
 ひとりごち、シフルは顔をあげて、再度息が止まりかけた。
 そこは、ごく小さな部屋の中だった。部屋の様式はラージャスタン式なので、シビュラはちゃんとラージャスタンに戻してくれたと思われる。
 しかし問題は、ラージャスタンのどこなのか、だ。
「《――君は、どこの誰かな?》」
 温和な声音で、紫色の瞳をした男が尋ねる。そのかたわらには、同じ瞳の少女がいて、シフルを見て青ざめて震えていた。
 周囲を見回して、狭い御簾の中に自分が闖入したことをシフルは理解した。御簾の内側にいる男と少女。二人は明らかに親子であり、ここはごく個人的な空間のようだった。二人とも黒一色の礼装に身を包んでおり、なんらかのかたちで今日の儀式を遂行していたらしいことが想像できる。
「《あの、オレ》」
 言いかけると、少女が、きゃっ、と声をもらす。今にも悲鳴をあげられかねない様子に、シフルは言葉をのみこんだ。
「《落ちつきなさい。君がそんなでは、彼も説明のしようがないよ》」
「《ごっ……、ごめんなさい。父君》」
 少女はかろうじて堪えてくれた。シフルとしても、明らかに不審者だというのにここまで尊重してもらった以上は礼を尽くさねば、と姿勢を正した。それから、その場で平伏した。
「《オレはブリエスカの留学生メルシフル・ダナンです! お邪魔をして申しわけありません。ホラーシュ詣(もうで)の途中で精霊に連れていかれてしまって、ここに落とされました! 怪しい者ではありません》」
「《ああ、君が。その銀の髪。聞いているよ》」
 男が理解を示してくれたので、シフルは少し安堵して顔を上げる。
「《あっ、ご存じでしたか。よかった。すみませんけど、ここはどこですか》?」
 男と少女は顔を見合わせる。それから、少女のほうがくすっと笑みをこぼした。
「《あなた、ここがどこか知らないで入ってきたの? わたくしたちが誰かも知らないの?》」
「《はっ、はい。精霊に落とされたので、落ちる場所は選べなかったです》」
「《ふふっ。大変なのね》」
 もうすっかり警戒を解いた様子で、少女はシフルにいざり寄る。「《ねえ、どうして精霊はあなたをさらったのかしら? さらわれて、逃げてきたということね? それって冒険ね!》」
「《あ、いえ、逃げてきたわけじゃ。冒険? 冒険》……《それはそうかも》……」
 むしろ追い払われたかたちだが、たしかにその謎は解けていなかった。どうして精霊王はシフルを呼びだし、恨みを晴らすでもなく、ただ会ったのだろう? 知りたくなった、と彼は言っていたけれど。
「……《どうして》……《なんだろう》?」
 思わず、すぐ目の前の紫の瞳に、真顔で訊いてしまう。《わたくしにはわからないわ》と、心底おかしそうに少女は笑った。
「《しかし、困ったね、君》」
 男はそのままの軽い調子で言う。「《こんなところに入りこんでしまっては。逃がしてあげられないよ》」
「《え》」
「《知ってるかもしれないけど、ここには結界があってね》」
「《――皇帝陛下。皇女殿下。火急のお知らせがございます。失礼してよろしいでしょうか》」
「!」
 信じがたい単語が耳に入った気がして、シフルは反射的に口を塞いだ。
 御簾の外に、人影がうつる。
「《いいよ》」
 男は許した。
「《ホラーシュに同行していたメアニーからの連絡で、留学生メルシフル・ダナンが姿を消したとのこと。もうひとつ、たった今、宮殿の結界に『揺らぎ』が生じたと》」
「《うん、知ってる》」
 男はシフルに視線を投げて、苦笑いした。
「《いまひとつ。――ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティンもサイアト宮から姿を消されたそうです》」
「《それは……知らないなあ》」
 シフルは、全身全霊で頭を振るしかなかった。