寮の自室に帰ると、シフルと入れ替わりでBクラスに入る学生が、荷物片手に待ちかまえていた。寮もクラス別であり、クラスが上がるにつれて生活レベルも上がっていくので、それもまた学生たちの原動力となる。
シフルの荷物といえば、ゼッツェとごく少数の服、それにトランクだけだった。家出のさいは落ちついて準備する余裕がなかったため、余分なものは何もない。まさに赤貧洗うがごとしだ。教科書も、部屋ごとに配布されているものを使いまわすのが理学院の伝統である。
シフルはほぼ身ひとつでBクラス寮を出て、Aクラス寮にむかった。といっても、Aクラスはわずか四十名しかいないので、Bクラス寮と同じ棟にある。
階段を昇ってAクラス寮にやってくると、掲示板の貼紙で部屋番号を確認した。一緒に昇級したユリシーズ・ペレドゥイと同室である。見れば、Aクラスの紅二点――《セージ・ロズウェル》とやはり一緒に昇級したアマンダ・レパンズとが同室で、シフルたち二人の部屋の真上だった。女子寮男子寮の区別がないのも、理学院の伝統である。
ドアの名札を確かめ、シフルは新しい自室に入った。いくらでも手足をのばすことのできるベッドや、涼しさを感じるまでに広々とした空間に、少年は目をみはる。広い。四メートル四方の二人部屋、Bクラス寮とは段ちがいだ。
(さすがはAだよなあ……)
シフルは改めて喜びを噛みしめた。改めて感謝の思いがわいてきた。時の運、いわんや試験官たち、いわんや面接試験のときの火(サライ)に。
「さっきの火(サライ)――」
両手合わせて七本、指を立てる。この指の数が召喚する精霊の階級にあたり、数が少ないほど階級が高い。階級が高いほど気位も高く、半端な召喚士では姿を現してはくれない。そしてBクラス通過の最低条件が、七級以上の精霊召喚である。ただし、精霊は属性によって性格に特徴があるとされ、火(サライ)は比較的呼びやすく土(ヴォーマ)は呼びにくいといわれているので、シフルの合格には時の運が大いに関わっていたといっていい。
「頼む。もう一回来てくれ」
そう言って、手を振り下ろす。
その仕種は単なる合図である。言葉も呪文の類いとは異なり、別段こだわらなくても問題はない。人によっては無言で召喚する者もいる。ただ、言葉にすることによって「その精霊を呼びだす」イメージがつかみやすくなるらしく、何らかの言葉とともに精霊を召喚するのが一般的である。中には、その言葉に惹かれてやってくる精霊もあったり、召喚士の容貌が好みなので現れる精霊もあったりして、精霊を召喚する方法には基準や決まりというものがない。個性の表れるところである。
シフルの声に応えるようにして、周囲の空気が赤みを帯び、徐々に収縮していった。変化の中心で、小さく破裂音がする。現れたのは、ごくわずかな種火だった。シフルの目の前に、頼りなく浮かんでいる。
彼女――一般に火(サライ)は女性とされる――が試験のさいに召喚した火(サライ)と同一の存在だという確証はなかったものの、少年はそのたゆとう存在にむかって微笑み、
「さっきはありがとな! 火(サライ)のおかげで、オレ、Aクラス通ったんだ! ほんと、ありがとう」
と、心から礼をいった。
すると、
〈あなたの役に立てて、私もうれしい……〉
と、控えめな返事があった。
遠いところからかすかに聞こえる声は、他のことに気をとられていれば聞き逃していたかもしれない。それでも、まちがいなく少年の感謝に対する反応だった。
彼女はあの火(サライ)なのだ。大気に浮遊し、常に流動しているはずの精霊が、自分の近くにとどまっていた! シフルはうれしさに、頬を紅潮させる。
「うんッ! ありがとな!」
小さな炎に、手をのばす。小さくても炎は炎、熱く実体がないので触れようがないけれど、シフルは両手で火(サライ)を包み、撫でるようにした。
愛しい存在――。最初は、精霊そのものへの思い入れなんてなかったのに、今はとても愛しい。以前、話しかければ応えてくれることに気づいてからは、いっそうだった。彼らと一緒に生き、彼らの力を借りる仕事――精霊召喚士になりたい。そう思ったのは、つい最近のことなのだけれど。
種火は消え失せた。シフルは手を振った。
直後、ユリシーズ・ペレドゥイが扉を開けて部屋に入ってきた。
「おっす」
シフルは新しいルームメイトに、にっと笑ってみせる。
「おーっす。ペレドゥイだよな? よろしく」
「ああ、よろしく頼む」
ペレドゥイは人懐こい笑顔で、握手を求めてきた。シフルは彼の手を握り、ぶんぶんと振る。それでシフルの上機嫌がよく伝わったらしい、ペレドゥイが、何かいいことでもあったのか、と尋ねてきた。
「合格させてくれた火(サライ)を呼んで、お礼をいったんだ。そしたら、オレの役にたててうれしいって言ってくれた!」
シフルは目を輝かせて説明する。
「へー、そんなことあるんだ。今度俺もやってみよっと」
ペレドゥイは興味深そうにうなずいて、部屋を見渡した。「こりゃ、えらく広いなー。うっわ見ろよダナン、洗面所ついてるぜ! Bと待遇ちがいすぎ」
ベッドを転がり、あちこちをのぞきこんで、そのたびにペレドゥイは歓声をあげた。シフルは相槌をうちながら、彼について部屋を見てまわる。
「うおー、いたれり尽くせり! 高級ホテルかよ、ここ! 召喚学部Aクラス卒業だと、元素精霊教会の首脳がボロボロいるからなー、今から優遇しとくってわけだ」
「なるほどね」
首脳、といわれて父親への反抗心が沸きたったが、かの人物との勝負を思って気を落ちつかせる。
(この際、親父のことは忘れよう)
シフルは自分を戒めるように決意する。(オレがいるのはここであって、親父のてのひらの上じゃない。親父のことなんか気にしてたら、ロズウェルにいつまでたっても追いつけない)
「さっき階段でレパンズさんみかけたよ」
ペレドゥイが思いだしたように言った。「どうも、すぐ上の部屋らしい」
「ああ、そうだな」
――この板の上に《やつ》がいる。
シフルは天井を見上げた。近い、とても。《やつ》の存在は、今となっては手に届く。
(待ってろよ。オレは、絶対負けない)
シフルはまた、拳を握りしめた。
翌朝、シフルとペレドゥイは揃って部屋を出た。
新しい一か月のはじまりである。同じクラスに引き続き居座る者にも、下のクラスに降格してしまった者にも、上のクラスに昇格できた者にも。最上級たるAクラスへの昇級が叶い、気持ちが弾むのを止められないペレドゥイにもシフルにも、すべての理学院生に等しく、一か月後の昇級試験にむけて走る日々の、再三の訪れだった。
「あっ!」
二人が階段に差しかかったとき、上から明るい声が降ってきた。「ダナン君! ペレドゥイ君! おはよー!」
軽やかな足音とともに、少女が階段を駆け降りてくる。金の髪に水色の瞳の、二人と同じくAクラスに昇級したアマンダ・レパンズだ。
「おーっす」
「おはよ」
三人はあいさつを交わす。昨日まではお互いしゃべったこともなかったのに、不思議と仲間意識が芽生えていて、自然に笑みがこぼれた。
「ダナン君って遠くから見てもひと目でわかるねー」
「あー、わかるわかる。女顔だし、小せえし」
「……」
三人はそんな冗談さえ言いあい、笑いあった。同じように成功した仲間で、まだ一ヶ月も始まったばかり、劣等感も優越感もない今だからこそ、何の屈託もなく言葉を交わせる。
――今日からはお互い、仲間で、ライバルだ。
でも、今しばらくは同じ意識をもつ、ただの仲間――。それだけのことが、シフルには妙にうれしかった。
「それにしても、やっと今日の日が来たって感じ?」
レパンズは大きな瞳を輝かせて言う。「二年の下積みを経てようやく! トップ・オブ・理学院! Aクラス!」
「俺は三年だし」
と、つぶやくはペレドゥイ。シフルは声には出さず、四か月だし、と付け加えた。今だけは、誰が先かなどということは忘れたかった。三人は談笑しながら廊下を進み、それぞれの思惑を胸に、行き交う学生たちの流れにまぎれて食堂へと歩き去った。
寮の廊下には誰もいなくなった。こののち朝食の時間が終わるまで、廊下を行き交う者はほとんどいない。
だから、《彼女》は現れた。
最後の学生が食堂の扉を開けた瞬間、《彼女》は廊下に立った。その瞬間が来るまでは存在しなかったが、その瞬間がくるやいなやその姿はあった。
濃青の髪の女――いや、女とも男ともつかない容貌である。どちらかといえば女に見える、そういう顔だった。長い髪と長い睫毛のせいで女のようだが、それにしては上背があり、異様さが漂う。
奇妙なのは容姿だけではなかった。《彼女》のまわりは、どういうわけか景色が揺らいでいた――あたかも炎のそばのように。
「……そろそろ、ですか」
女はつぶやいた。そして、次の瞬間には再び消え失せた。
