「四人とも、大変よくがんばりました!」
春休み前の最終日、カリーナ助教授が言った。ラージャスタン留学むけ特別カリキュラムの開かれている小教室に、彼女の喜色に染まった顔がある。
「これで、春休み前の特別カリキュラムは終了です。ご褒美というのもなんだけど、今日は夜間の講義はなし。存分に《ワルツの夕べ》を楽しんでいらっしゃいな」
四人はそう告げられると、これら連日の苦労が他でもない己の選んだ道だとしても、喜ばずにはいられなかった。シフルとメイシュナーはガッツポーズをとってうれしさを表明したし、セージとルッツも、口や態度には出さないものの安堵感を漂わせていた。
「明日から、あなたたち四人も春休みです。――ただし、喜ぶのはまだ早い」
カリーナ助教授は四人の反応をみて、意地悪げに微笑む。「あなたたちの休みは最初の一週間。その期間は、家族で新年を過ごすなり何なり、自由になさい。ですが、残り二週間は直前ラージャ語会話集中講座にあててもらいます。いっておくけど、これまでの数倍厳しい講義になるでしょうね。なんといっても、ラージャ語もろくに話せない学生を、プリエスカの代表として皇宮になんか送りこめませんから」
うえー、とメイシュナーが辟易した声をあげる。カリーナ助教授は学生四名の疲れた表情を見ると、満足げに口角をあげ、せいぜいがんばりなさいな、と励ました。カリーナ助教授は基本的に極端な表現が多いものの、嘘はいわない。彼女が前より厳しくなるといえば、事実そうなるのだろう。
シフルはとりあえず、一週間の休みをもらえただけでも喜ぶことにした。一週間あれば、休養も、時姫(ときのひめ)に会いにいくことだって、充分にできる。帰省する気はないのだから、一週間では余裕がありすぎるぐらいだ。
強いていえば、その一週間の四日めが元日だという点である。元日とは、家族でおいしい料理を食べて、この一年に幸あれと願いをこめる日のこと。ダナン家の家庭には春にもかかわらず寒風が吹きつけるのが常だったけれど、いちおう慣習は慣習として守ってきた。それを今年、初めて破る。まあ、それはいいとしても、新年をまったくのひとりで迎えるというのは、かなり空しい状況ではなかろうか。
仕方ない、とシフルはあきらめていたが、
「え? 春休み? ――帰省はしないよ。寮に残る」
少年のさびしい想像を裏切って、セージはさばさばと答えた。
「なんで? 新年だよ?」
シフルは、内心うれしく思いつつも、尋ねる。「家族はいいのか? 新学期にはラージャスタンだし、しばらく会えないじゃん」
「休み、一週間しかないから」
セージはもっともな理由を述べた。「一週間じゃあ、ほとんど行って帰るだけで終わっちゃうよ」
「あー」
確かにサイヤーラ村は遠かった。シフルは納得する。
ふたりは小教室を出て、寮に向かった。外は夕闇の暗さである。じきに《ワルツの夕べ》が始まるのだろう、中庭は騒がしい。
「セージは《ワルツの夕べ》参加するんだっけ」
「うん、そのつもり」
シフルが問うと、彼女は楽しげに笑った。「前は制服で参加したけどね、今回は母が一張羅を貸してくれたんだ。アマンダとドレスの見せあいをしようって、前から言ってたの」
「ふーん」
セージのドレス。シフルは想像をはたらかせてみる。
セージは華やかなかっこうだったら、どんなものが似合うのだろうか。アマンダは日ごろから華やかな空気を発散しているから、どんなものでも合う気がするし、じっさい前回の《ワルツの夕べ》の大人気ぶりは、アマンダの魅力を証明していた。でも、日ごろ落ちついた雰囲気のあるセージだと、普段とは感じがちがうかもしれない。
見てみたい。
(いやいや、オレ参加しないし)
が、次の瞬間、シフルはぽんとてのひらを打った。(そっか。前みたいに、窓からのぞいていればいいんだ)
「じゃ、楽しんでな」
ありふれた言葉をかけて、シフルはセージと別れた。例によって意地を張り、別れたきり相手を顧みようとしなかったシフルは、もちろんセージの企て顔を見落としていた。
寮の中庭は、カップルと非カップル――すなわちあぶれた男子学生――で埋め尽くされている。《ワルツの夕べ》開始直前の常として、カップルは中庭の中央にそびえるモミの木の周辺に集まり、非カップルはさらにそれを囲うように立つ。どうあがいても、本日の主役とその他の観衆、といった趣きである。
だが、今は観衆たる彼らも、己の恵まれない境遇をただ嘆いているのではない。どの二人から幸せを奪い去ろうかと、獲物を狙う狼のごとく研ぎ澄まされた精神でその場にいるのだ。
そして、彼らの視線の多くは、数あるペアのなかでもひと組に集中していた。陰で「アイドルと崇拝者」と呼ばれる、Aクラス生アマンダ・レパンズとユリシーズ・ペレドゥイのカップルである。狼たちが彼らを特につけ狙うのは、なんといってもアマンダの愛らしさと、相手の男が根性なしであり、比較的かんたんに彼女をさらえることに尽きた。
が、当の二人はそんなことはつゆ知らない。
「今回もみんな気合い入ってるなあー」
学院生の憧れの的であるアマンダは、寮の中庭に集った学生たちを見渡し、はしゃいだ声をあげた。
「……アマンダこそ……」
感無量というありさまのユリスが答える。生きててよかった、といわんばかりの彼に、アマンダは満足げに微笑むと、
「そうー?」
と、ドレスをつまんで一回転してみせた。彼女の動きにともなって、きれいな白のドレスが花開き、周囲の男子学生を狂喜の渦に陥れた。いわんやユリスをや。彼はすでに、本気で失神する五秒前の状態である。
「毎回、男の子も気合い入ってくよね! ほらほら、見てー。あの子、タキシードだよー?」
彼女は愛らしい仕種でユリスの袖を引き、むこうを行く男子を指し示す。たまたまアマンダの興味の対象となった男子は、そのじつ彼女を非常に意識していたらしく、指されると、とたんに動きがぎくしゃくしていた。
「ユリスも、蝶ネクタイとかどう?」
「いや、それはちょっと……」
そうした他愛ないやりとりをするうちに、モミの大木の下で、楽団が音合わせを始めた。もう少しで日が沈む。楽しい《ワルツの夕べ》のはじまりのときだ。
ユリスはさりげなく、
「セージ、どうなったかな」
と、つぶやいてみた。が、アマンダは、
「そうだね」
と、相槌をうっただけで、べつだん感情を動かされたふうでもなかった。
シフルはといえば、前回同様、窓から祭の参加者を見下ろしている。知った顔を探しては、ひとりおもしろがっていた。見知らぬ女子とつまらなそうに組んでいるルッツ、例によって一緒にいるメイシュナーとカウニッツ。久しぶりに見るカウニッツはそれなりに元気そうで、メイシュナーも楽しそうである。
上から見ていておかしいのは、やはりユリスとアマンダである。二人は気づいていないようだが、一見偶然そこにいるだけという風情のまわりの学生は、よくよく見なくても全員男子。ときおり、妙に熱っぽいまなざしをアマンダに送っているのに、ユリスときたらまったく呑気なものだ。
(はは、大丈夫かな。ユリスのやつ)
シフルはひとしきり笑って、ふと既視感にとらわれた。
(まただ)
と、少年は思う。(また、セージがいない)
そういえば、前回も群衆のなかに彼女を発見できなかったのだ。そうしたら、セージが部屋にやってきて――。
そのとき、誰かが扉を叩いた。
シフルは緊張の面もちで、振り返る。いやな予感がひしひしとした。
けれど、少年は扉を開けてしまった。なんとなく抗えなかったのだ。
廊下には、少女がひとり。
「――」
一瞬、知らない人かと思った。
ひとつには彼女が真っ赤なワンピースを着こんでいたこと、もうひとつは、日ごろはきちんと結わえている黒い髪を、今日はおろしていたことがあるだろう。見慣れない、でもよく知っている――セージの姿。
「……あ、よく、似合うよ」
と、まずは大まじめに褒めてしまって、それから急に気恥ずかしくなり、少年は顔を思いきり紅潮させた。ごまかすように、似合う! 似合う! と騒ぎたて、しきりに手を叩いてみせる。照れ隠しとしかいいようがない。
「ありがとう、シフル」
彼女はまちがいなくそれを理解していて、にっこりと笑った。「じゃあ、行こうよ」
「……」
シフルは沈黙する。
すると彼女は、
「ねっ、行こう!
と、春の日射しのごとく微笑んだ。シフルは逆らいきれない空気を感じつつ、それでもなんとか避けて通ろうと、反論を試みる。
「だ、大丈夫だよ」
シフルもつられて笑顔になる。「セージなら引く手あまただって! なにも、オレじゃなくても……」
「関係ないよ。たとえそうだとしても」
セージは即答した。「シフルがいいんだから」
シフルは返答につまった。そこにあるのは、全面的な好意。ただ保身のために《ワルツの夕べ》参加を拒否している少年は、それを前にして罪悪感を覚えずにいられない。
「……オレへたっぴだって、セージも知ってるじゃん。ほら、前に足踏みまくったし……」
自分からいやとはいえないので、相手にいわせようとするシフル。
「大丈夫、かわすから。もう慣れたもの」
決してそうはいわないセージ。
シフルはすでに、適当ないいわけがネタ切れ直前であることに気づいているが、それでも承諾するわけにはいかない。
「そーだ!」
シフルは拳を握り、これはどうだとばかりセージに突きつけた。「オレと一緒だと、セージまで悪目立ちする!」
決定打だ、と少年は思った。が、
「私がリードすれば問題ないよ」
という冷静なひと言のもとに、却下されてしまった。
万事休すだ。シフルは、拒みつづける苦しさに気づきながらも、さらにネタを探した。いくつか思いあたるも、いずれもいいわけとして弱い。しかし、発言しないことは承諾を意味する。
「……男が女の子にリードされるのって恥ずかしいなー、なんて……」
セージの眼が妖しく光った。シフルはぎくりとする。ひょっとしなくても、策にはまったのか?
「あら、じゃあ――」
彼女は口の端をあげた。「仮にシフルが女の子で、私が男だったらいいってこと?」
「まあね!」
シフルは開き直る。「でも、事実は変わりようが――」
「いいえ!」
セージの、勝利を確信した笑み。「――変えてみましょう、その事実」
「え」
背後から、《ワルツの夕べ》の楽しげな喧噪と、優雅な音楽が聴こえてくる。
シフルは、一歩、また一歩と近づいてくるセージを前にして、ことは最初からこうなるように導かれていたのだと、ようやく悟ったのだった。
