第7話 この足が駆ける - 4/4

 メイシュナーの分析に夢中で、自分も試される側だということを忘れていたのである。シフルは《四柱》それぞれの呆れ返った顔を見て、大あわてで席を立った。勢いのあまり、何もないところでつまずきかけて、このうえ同席者たちの苦笑を誘ってしまった。シフルもつられて、気まずく頬をゆるめる。が、笑ったとたんに、自然と緊張が解けていった。と同時に、少年の内側を試験に独特の静かな興奮が満たしていく。
 ――よし。
 つまずいたのは純然たるアクシデントだが、悪くない。シフルは居ずまいを正し、教壇に向かった。もうつまずかないように、足もとを確かめつつ壇上にあがる。猫目石をまたいで水の膜をくぐり、ドームの中心にたどりついた。
 シフルは水のゆらめきを通して、教室全体を眺めやった。どうやら、ドームの外側から内側を見るときより、内側から外側のほうが見えにくい。ここからだと、教授や《四柱》の顔も判然とせず、机や椅子も輪郭がぼやけてみえる。メイシュナーの起こした地震により壊れたランプも、いつの間にか拾いあげられて再び灯がともされたようで、やわらかな光があちこちに点在していた。
 外はすべて曖昧。だから、刺さるような視線も感じない。
(思う存分、やれる)
「さあ、始めなさい」
 物音もだいぶ遮られていたが、進行係の声はよく聴こえた。
「はい!」
 シフルは意気ごんで答える。力強い返事とともに、右手三本、左手二本の指を立て、利き手を振りかざした。
 そして、胸のうちで確認する。
 精霊召喚のこつは、精霊を喜ばせること。
 思いだせ。どうしたら、火(サライ)が喜んでくれるか。――
(うれしい)
(ありがとう)
(オレも、好きだよ――火(サライ))
「――火(サライ)の子らよ」
 シフルはひとつひとつの言葉をはっきりといった。眼を閉じて火(サライ)のいる空気を肌で感じ、眼を開ける。それから、勢いよく手を降り下ろした。
「――オレに、力を貸してくれ!」
 確信があった。
(来てくれる)
 シフルは目の前の空間を、じっとみつめる。(おまえたちはきっと、オレを助けてくれる――)
 まだ火(サライ)は発現しない。
 が、ふいに拍手が聴こえた。どうしてだろう? 不自然だ。まだ――呼べてないのに。
 だけど、おかしい。頭の上が熱かった。そんなに、頭に血がのぼっているのだろうか?
 シフルは水(アイン)の壁に顔を近づけて、外の様子をうかがった。手を叩いているのは、教授陣の中にいるカリーナ助教授。シフルが首を傾げてみせると、彼女はにっこりと笑い、おかしげに自分の頭上を指さした。上を見ろといっているらしい。
「?」
 シフルはいわれるままに上を向いた。「……あ?」
 目の前が、真っ赤に染まる。
「――」
 シフルは、二の句が継げなかった。
 あろうことか、火(サライ)は、シフルの頭上で燃えていたのである。まるで、必死の少年をからかうかのように。大きな五級火(サライ)の炎。
 こんなことは前にもあった。クラスで六級召喚を披露させられたときだ。
「……わかってるよ、火(サライ)」
 シフルはかろうじて言った。「『おまえ』なんだろ? また」
 試験のときに出会い、礼をいうため呼びだしたときに初めて話をした火(サライ)。Aクラスに入ったあと、六級火(サライ)を召喚したときに再び出会い、その際に会話によってシフルは学説を覆すことになった。
 彼女は何度も力を貸してくれた。これは四度めの出会い、力を貸してもらうのは三度め。
〈うふふふ……〉
 頭上で燃えていた炎が、シフルの目の前まで降りてきた。〈また会えました。シフル〉
「うん。うれしいよ。来てくれてありがとう。おまえ、また階級上がったんだな。すごいな」
 シフルは優しい声で語りかける。「でも今、また時間がないんだ。今度会ったときには、おまえとゆっくり話ができたらいい」
〈ええ。そうですね。そうできたらいい〉
 炎がちりちりと火の粉を飛ばす。笑っているのかもしれなかった。
〈うふふ。楽しみにしています。では〉
「ありがとうな」
 シフルは手を振る。頬があたたかかった。うっかり、今が選抜試験の最中であることを忘れてしまいそうだった。シフルは力いっぱい自らの頬を叩き、緊張感を蘇らせる。
(よし、次だ。次は――五級うまくいったから、四級火(サライ)だ!)
 シフルは指を左右二本ずつ立てた。合わせて四本。四級は一度も挑戦していないが、この調子ならうまくいくかもしれない。
「火(サライ)の子らよ。オレに力を貸してくれ!」
 シフルは利き手を高らかに上げ、一気に振り下ろした。
(頼む、火(サライ)!)
 もう一度、助けてほしい。あの火(サライ)でもいい。もう一度やってきて、力を与えてくれたなら。
 シフルはぎゅっとまぶたを閉じた。
「――」
 そっと、まぶたを開けた。
 そこには何もいなかった。ただ、変わらぬ空間があり、そのむこうに水の膜があるだけ。
「あ――」
 失敗したのだ。三回のうち、一回めは五級火(サライ)召喚に成功し、二回めの四級火(サライ)は呼びだせず、残るはあと一回。あと一回で、シフルが「より高い級の精霊をより確実に召喚できる」精霊召喚士なのだと、試験官にアピールせねばならない。
 シフルの頭がすうと冷えていく。絶望の温度だった。いや、後悔の温度かもしれない。なぜ、わざわざ四級に挑戦してしまったのだろう。まだ試してみてもいないというのに、成功するはずがないではないか。
(次……次は? 何にしようと思ったんだっけ?)
 シフルの頭はもはや真白だった。人の試験を見もせず、考えあぐねいたはずのシフルの作戦。何かをアピールするために、三回めには何をやるんだと、決めていたはずだった。しかし、どうしても思いだせない。動転していることはわかっていたが、わかったところで冷静に戻れるわけでもない。次で終わりなのだ。
 それに、生半可な階級の精霊ではだめだ、とシフルは思った。仮に精霊の階級の平均で選ぶとしたら、二回めに何も召喚できなかったことは、大きな失点になる。これまでの三人は、三人とも三回すべて召喚に成功しているし、このまま無難な路線で五級火(サライ)を呼んだとしても何にもならない。
(オレは負ける)
 ついに、その言葉が脳裏をよぎった。(いっそここで棄権したほうが、かっこうはつく)
「どうした? 早くしなさい」
 進行係がシフルを急かしてくる。「それとも、試験を辞退するかね? そうなれば、自動的に最後の一人エルン・カウニッツが留学の権利を獲得する」
 ざわめきが、水(アイン)の壁を通して遠くに聴こえた。みんなはいったいどんな思いで自分を見守っているだろうか? ルッツは、こんなものか、というところだろう。カリーナ助教授はきっと、ここまでね、と。カウニッツは顔にも口にも出さないが、内心喝采をあげている。メイシュナーはよくは知らないがカウニッツの友達だ、彼と一緒に喜ぶのだろう。
 そして――ロズウェル。
(ロズウェル、は……)
 シフルはその名前に、この期に及んで負けずぎらい魂が呼び覚まされるのを感じた。(いやだ。いやだ。あいつには負けたくない)
 ギリギリでも、あいつのめざす場所についていく。あいつが走り去ろうとしても、――かぶりついてやるんだ!
(大きな、力が欲しい)
 シフルはひとりごちた。(一回の失敗をものともしない大きな力)
 今だけでいい。今、この手のなかにその力があれば、自分はとにもかくにもロズウェルの足にしがみついて、ついていける。あとはどうなってもいい。どうしても今、力が欲しい!
 シフルは天井を見上げた。そのとき急に降ってわいたある考えに、弾かれたのだ。が、シフルは再びうつむいた。少年は躊躇していた。それは、とんでもなく卑怯なことではないのか?
 進行係が、今度はやや怒気をこめて告げる。
「メルシフル・ダナン! 二度めの警告だ。早く召喚しなさい。三度めの警告で失格とする」
 迷っている暇はなかった。
「――空(スーニャ)!」
 それしか手段は残っていなかった。少年は、どこかにいて自分を観察しているのだろう彼に届くよう、声を振り絞って叫んだ。
「空(スーニャ)、来い! 今こそ、力を貸してくれ!」