第7話 この足が駆ける - 2/4

 シフルは寮に戻った。
 階段を昇ってAクラス寮にたどりつくと、とたんに緊張で喉が絞まり、軽く咳きこむ。しきりに嘆息しつつ自分の部屋の扉の前に立ち、うしろめたい気分で扉を開けた。
(一日まるまるさぼっちゃったんだもんな……)
 シフルは後悔に苛まれている。事故みたいなものだが、確認しなかった自分にも非がある。
(ユリスたち、呆れてるよな……、きっと。ロズウェルやルッツなんか怒ってそうだ)
 理学院は、単なる高等教育機関ではない。プリエスカ全土の学校から優等生中の優等生が集ってくる、名門中の名門だ。王立であることにかけて、世間では《王さまの学校》とも呼ばれている。
 そんな理学院では、基本的に不まじめな学生など受け入れないし、また成績に影響するとわかっていてむざむざ授業に遅れてくるような学生は昇級できない。おおかたの学院生にとって、無遅刻無欠席は当たり前のこと。そうでない学生については、おまえ本当にやる気あるのか? という話になる。
 そういった考えかたの度合いはクラスが上がるごとに突出してきて、当然Aクラスにおいて絶頂となる。Cクラスあたりにいたころは、病弱を理由にしばしば欠席する学生も見受けられたが、Aクラスまでくると心身ともに強健な学生しか残っていない。たまに欠席者がいたと思えば、深刻な病が明らかになり、そのまま学院を退学していく学生だったりする。
 よってシフルは、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、まんまと一日欠席の大穴を空けてしまったことに罪悪感を覚えていた。友人は呆れることまちがいなし、シフルにかまうルッツには失望されるだろうし、ロズウェルに皮肉をいわれないはずがない。
 担任がヤスル教授でよかった、教授は学生に無関心だから、とシフルは思う。それがBクラスのときの担任、カリーナ助教授だったら、まず呼びだされただろう。前に、そうして彼女に大目玉を食らった学生がいた。彼は、たかが一日、学院の外で羽を伸ばしただけだった。
(うー……、あー……気が重い)
 シフルは扉を全部は開けず、隙間から中をうかがった。
 ユリスがいる。彼は自分の椅子に腰かけて、何やらほがらかに笑っていた。誰かとしゃべっているようである。
「あ、シフル! お帰りー!」
 アマンダだ。今日も彼女は晴れやかな雰囲気を発散している。ためらうシフルを、笑顔で部屋に招き入れた。
「あ、うん、ただいま」
 シフルは逃げだしたい気持ちで、のろのろと部屋に入った。アマンダはシフルの不審な態度をめざとく察し、
「どうしたの?」
 と、首を傾げる。
(へ?)
 シフルもまた首を傾げた。いつも三人で行動しているのだ、シフルが無断外泊――実際はそういうわけではないが――と無断欠席の「罪」を犯したことを、知らないはずがない。
「?」
「?」
 同じ方向に顔を傾けて、みつめあう二人。次の瞬間、二人して、うふふふ、と笑いはじめた。
「何してんだ、おまえら」
 ユリスが呆れている。
「あのさ……」
 シフルは中途半端に笑みを浮かべて、友人に尋ねた。「今日、何の月の何日だっけ」
「? 第三の水(アイン)の月二十日だろ。な、アマンダ」
 ユリスは部屋にかけてあるカレンダーを指さした。アマンダも、そうだよ、とうなずいた。
(二十日――)
 シフルは留学生募集の告知にあった文句を思い起こす。(申込の期日は第三の水(アイン)の月二十五日だった)
 あの告知を見たとき自分は、あと五日しかない、と絶望したのではなかったか。それから、空(スーニャ)が見せた過去で一日以上を過ごした。そこで経過した時間を差し引けば、どう考えても残り四日にしかならないはずなのに、なぜかシフルは今、あの留学募集告知が掲示された日と同じ日にいる。期日まで、あと五日。
 消えてなくなったのは、十六年前の日々を過ごしたあの一日。
 ――《時姫》。
「つまり時姫さまは、精霊王の妻であるとともに、時属性を支配するかたである」。そう言ったのは、あの妖精。
 ――まさか、本当に……?
 シフルはついに、あの青い妖精の主張を信じざるをえない状況に叩きこまれたことを心底悟った。

(時姫、という通り名は、あのかたの能力と立場をまさしく表している)

(『時』は時属性。『姫』は寵姫)

 ないことになってしまった過去での一日。
 十月十日をほんの一瞬に短縮して生まれてきた赤ん坊。

(その子に、メルシフルという名を与えよう)
 そう言って、女は扉に手をかけたのだった。(私の子である証として。――中世ロータシア語で、《真の無(メル・シフル)》を意味する言葉……、私が長年望んできたことだよ)

 ――オレは……。
 シフルは覚えず、口を手で塞いだ。言ってはならないことを、その口がもらさないように。
 ――母さんは……。
 どうして、手を離した。どうして、自分を見ない。
 ――時姫(ときのひめ)、
(オレの、本当の母親)

「――シフル?」
 心がざわつきはじめたのを、友人の声が制止した。「どうしたんだよ、おまえ。さっきからなんか変だぜ?」
 シフルは表情をこわばらせ、びくりと肩を震わせた。そして、心配そうにみつめてくる友人たちの顔を、それぞれ見やった。ユリスは少年の肩に手を乗せて、困惑気味に顔をのぞきこんでいる。アマンダはそのうしろで、はらはらと少年の反応を待っていた。
「さっきもさ、すごい顔してどっか走っていっただろ。だいたい最近ずっと、授業に関係ない本読んで考えこんでたり、大変そうだしさ」
 ユリスは気づかわしげに言う。「あのな、シフル。俺らいちおう友達じゃん? 何かあったんなら、頼ってくれても全然かまわないんだぜ?」
「そうだよ!」
 アマンダが意気ごんで一歩踏みだす。「何か大変なことあるなら、私たちも手伝うよ」
「ああ、……うん」
 シフルはつぶやいて、もういちど彼らの表情を眺めやった。二人とも善意に満ち満ちていて、シフルは言おうか言うまいか迷ったものの、一瞬うつむき、次に勢いよく顔をあげると、思いきって口角をあげた。
「ありがとな。でも、大丈夫。なんでもねーよ」
 極力明るい声でそう告げる。「たださあ、ラージャスタン留学の告知見た? オレ、あれ行きたくって。でも《四柱》が揃って応募するっていうし、五級精霊が呼べなきゃ応募もできないし、ちょっとショック受けてたんだよ」
 なんでもない、というのは、何かある、と暗に教えるようなものだ。そこでシフルは、あながち嘘でもない理由で説明した。それで二人は納得して、ああ、あれね、とぽんと手を打つ。そうなんだよ、とシフルはもういちど苦笑した。
「だけどあれ、冗談みたいな企画だよねえ」
 そうアマンダがつぶやくと、ユリスも同意する。
「ほんとほんと。何しろラージャスタンだもんな」
 その言葉からして、挑戦しようとは思わないらしかった。「そのうえ、皇宮警護! 俺じゃあ絶対、マキナ皇家を守る前に殺されるよ」
「私もー。剣術や体術だって実戦で使ったことなんかないし、ましてや精霊召喚で人を攻撃するなんて、失敗したら大変だよー! もたもたしてるうちに死んじゃうかも」
 アマンダもユリスも、分をわきまえている。二人とも、召喚学部に在籍しているからには、精霊召喚士になることは考えているのだろうが、それでも、まだまだ実戦の場に通用するレベルではないことを承知しており、むりをする気はないらしい。
「いけそうなのって、今のAクラスだとやっぱりロズウェルさんぐらいじゃないかなあ」
 アマンダは、ユリスのほうにちらと視線を投げる。「ほら、あの噂――」
「ああ……、あれ」
「?」
 シフルが目で問うと、二人は顔を見合わせ、微妙な表情になった。
「事件があったんだよ。ロズウェルがDクラスのときだったかな。一年近く前」
 ユリスは声を低くして、シフルに耳打ちする。「ロズウェルが、柄の悪い連中を水(アイン)使って殺しかけたって。どうも連中のほうがロズウェルにつっかかったらしいんだけどさ、むごたらしくやられてたって話」
(あの話か。有名なんだな)
 Aクラスに入ったばかりのころ、シフルも小耳に挟んだことがある。
「怖いけど、必要なのはそういう力なんだよね、あの留学って。戦争のときの精霊召喚士の役割を思いだすよー。なんか、……いやだなあ」
 アマンダは自らの肩を抱いた。あのプリエスカ・ラージャスタン戦争では、理学院出身で元素精霊教会所属の精霊召喚士たちが兵器として投入され、死者も多く出た。その屍が、今日の教会の権力基盤となったのである。
「だから、シフルはそんなのに関わらなくてよかったんだよー。ね?」
 彼女はきらきら光る水色の瞳を細めた。「みんなで一緒にプリエスカで勉強してよ? そっちのほうが絶対楽しいよ。ねっ、ユリス」
「う、うんッ」
 アマンダのかわいらしさに心臓を撃ち抜かれたらしいユリスは、やや興奮がちに拳を握りこんだ。シフルはそれを見て噴きだした。
 が、
(でも……、オレは行きたい。行かなきゃ、先がないような気がする)
 と、内心ひとりごちた。物理的な怖さよりも、先をめざせない怖さのほうが怖いのだ。楽しいことは魅力的だけれど、楽しいだけで進歩のない日々なんて耐えられない。
(時姫(ときのひめ)……、『実の母』)
 シフルは改めてその名を反芻する。
 すると、ユリスとアマンダをごまかすべく留学生募集のことを話題にしたというのに、彼自身の気持ちも変わっており、母親が誰かということなど些細なことのように感じられるのだった。それほど、少年にとって己の将来は大きかった。将来への希望は、すべての痛みを凌駕するためにこのうえなく有効だった。
(呪われた血をオレに与えた女。すがりつけば、オレに力を貸してくれる)
 シフルは自分の手を見た。これまで、まわりの人に手助けしてもらいながらも、基本的には自分の力でやってきた。この手で、この足で、やってきた。
(これからも)
 自分ひとりの力でやっていく。あがく気力のある限り。シフルは、手に持っていたゼッツェを自分の机の上に置いた。
「……オレ、またちょっと出てくるよ」
 そう言うと、再び扉を開ける。足早に出ていこうとすると、
「待って! シフル」
 アマンダが焦ったふうで呼び止めた。
「ん?」
 呼ばれて、シフルは顔だけを扉の隙間からのぞかせる。
「あのね、今度の《ワルツの夕べ》、三人で一緒に踊ろうよ。こないだやったみたいに」
 彼女は振り返った少年に、花のように微笑んでみせた。「みんなカップルで踊ることしか考えてないし、絶対目立つよ。きっと楽しいと思うの」
 しかし、彼女の提案にも少年の決意は変わらない。
「あー、ごめん。オレ遠慮しとくよ。それどころじゃないんだ」
 シフルは、わだかまりのないからりとした口調で答えた。「それに、ダンスヘタだし。ユリスと二人で出たほうが悪目立ちしなくてすむよ」
 そう告げると、シフルは手を振ってさっさと部屋をあとにした。
 そこで、複雑な表情のアマンダと、最高のパートナーを獲得して喜びに打ち震えるユリスが残された。その後しばらく、二人はそれぞれ思案をめぐらせていたが、やがてアマンダがかげりのある表情のまま唇をひらいた。
「……三人で一緒にAクラス上がったのに」
 いつになく沈んだ声で、寂しそうに笑う。「シフルは、何がなんでもひとりで先に行こうとするんだね」
「――アマンダ」
 彼女はもう、いつもの明るい笑みをみせてはくれなかった。ユリスとて、もはや手放しでは喜べなかった。
 二人にとって、楽しみにしていたダンスパーティーは苦みを伴うものとなった。

 一方のシフルは、全力で疾走している。
 鈍足ながらも必死の走りで、すでに夜となった理学院構内を駆け抜けた。向かう先は、例によって展望台である。ここはほとんど人が通らないので、精霊召喚の練習にもってこいの場所だった。
 シフルは階段を駆けのぼり、頂上に着くといったん息を整えた。ようやく声が出せる程度に呼吸が鎮まってくると、大声で呼ぶ。
「火(サライ)の子らよ!」
 思いだせ。ついさっきこの場所で、火(サライ)たちが喜んでくれて、自分もまたうれしかった、あの気持ちを。あの気持ちをいつも持っていれば、精霊は呼び声に応えてくれる。空(スーニャ)が教えてくれたのは、きっとそういう意味なのだ。
 ――五日間、あがいて、あがいて、あがいてやる。
 少年は闇の中、勢いよく利き手を振り下ろした。