月佳の儀式の日が近づいている。
カイに話を聞いたところ、「偶然にも」、カイと月佳が儀式を受ける日どりは同じであった。しかも、カイはかのマルクトとともに元服するという。しかし月佳はふたつの「偶然」を驚きもしない。それが定められていたことで、必然であることを知っていたからだ。
「ハーディヴァ家はたいそうな豪商だそうでな。大会には金を積んで出場したらしい。俺と同じだな」
カイはそう言って笑った。月佳はそんなカイの様子をみつめていた。
――欺瞞。
どんなときでも嘘だけは使わない。そう言った少年が、平気な顔で月佳を欺いている。だが月佳も、勘づいたそぶりは見せない。だからカイは、自分の嘘がとうに露呈していることに気づかない。月佳は怒るどころか、心から結婚のその日を待っているような態度でいる。
「もうすぐカイとずっと一緒にいられるね」
甘い言葉をささやいて、極上の微笑みをみせる。それには、むしろカイのほうがだまされているといったほうがよかった。
自分をだましてでも夫人にしたいという少年と、ずっと一緒にいたいというのは、確かに月佳の望みではあった。彼に惹かれている。彼の強さに? 彼の激しさに? 彼の真剣さに? 理屈は自分でもわかりはしないのだ。
けれど彼のそばに自分があって、これからも彼と語らいたいと思うのは事実であり、また、彼に抱きしめられたときに感じるものも事実。彼の熱を感じるたび、その熱を失いたくないと思うのも事実。自分にはカイが必要だ。でも、嘘をつかれていた。そして、自分も彼を偽っている。
嘘もしがらみも抜きでともにいられるような身の上だったら、どんなによかっただろう。しかし、彼は皇太子であり、義姉の夫であり、自分はその義姉に仕える者である。
「ねえ、わたしどんな花嫁衣装着ていけばいい?」
「月佳が用意する必要はない。元服がすんだらおまえの家に届けさせるよ。この世のあらゆる女がうらやむ花嫁衣装を、今つくらせている。楽しみにしていろ」
他愛もない話をしながら、じゃれあうように何度かキスをしたり、腕を抱いたり、抱きあったりして彼の温度を感じる。――決して、忘れないように。
「わたしたちのこれは恋愛なの? カイ」
「俺はそうだと思っていたが」
月佳はくすくすと笑って、わたしもそうだと思うという。
「でも考えてみれば変だよね。最初は犯罪者と被害者。次は求婚者と求婚された者。次に友達。次はお互いに剣士。それで婚約者同士になって。最後に恋人同士、かな」
「最初のときのこと、まだ根にもってるのか」
だってまだ一週間くらいしか過ぎてないもん、当然だよ、と言いながら、カイに口づけを落とす。
「わたしたち、なんでこんなふうになれたのかな」
「天命とか運命とか言いたいか?」
「ううん、言いたくない。わたしは自分の足で歩いて、自分で選択肢を選んできたと思いたいもの。たとえ本当はちがうとしても」
ちがうのか? と言って、カイも口づけを返してきた。
「わたしは今まで自分の足で歩いていなかったの。それに気づかなかった」
会話の最後に、お互いの熱を求める。
そのようにして二人は、儀式の日まで、毎日、広場で会った。
儀式は立会人と受印者と授印者の三人さえいれば成り立つ。
一般市民の場合は、たいがい親と子と親戚の者とで執り行われる。儀式は各市町村の役場の一室がそのためにつくられているので、必ずその部屋を用いる。役人が不正行為に目を光らせて隣室で控えているのである。焼き印をあてる儀式を終えると、その足で戸籍の更新にむかう。性別を明らかにして、改めて戸籍を登録するのである。
皇太子カイザールディオンは、儀式の前日、父である皇帝からお呼びがかかって謁見した。むせかえる花の香りに鼻をつまみながら、彼は父の入りびたる後宮に参上した。彼が蔑視している、父のお手つきの宦官に重い扉を開かせ、父に歩み寄った。
彼は皇帝を拝さない。身内相手にひざまずく必要はないと彼は思っている。毎度のことなので、イフィーズ八世も彼を責めない。彼の姿を認めると、さっそくに元服祝いの言葉をかけた。
「これでようやく棕櫚嬢を娶ることができるのう、カイザーよ。誠にめでたい。こたびの立会人には桂月、授印者にはアルバインを任命した。が、今回の元服は、将来のメーヴェを担う少年三人が同時に受けるものだ。そこでだ、まず最初におまえが焼き印をアルバインから受ける。続いて、桂月の嫡男がおまえから焼き印を受ける。最後に、ハーディヴァに桂月の嫡男が焼き印を授ける……と、主従の関係を厚くするためにこんな趣向はどうかと桂月に持ちかけられたのだが、異存はないか」
「……桂月師の嫡男とは?」
桂月の「嫡男」だった月佳は成人することになっているのにそれはおかしいと思い、皇太子は父親に尋ねる。
「それはもちろん、月の文字をもつ少年よ」
ふふ、と皇帝は笑った。皇太子カイザールディオンは、月佳を廃嫡せざるをえなくなった桂月が、さっそく新たな養子を得たのだと判断する。なぜなら、月佳は自分と約束しているからだ。これからも、ともにいようと。
翌朝、皇太子はアルバインと桂月の出迎えに応じて役場を訪れた。役場につくと、心の準備をする間も与えられず、元服の儀のために着替えさせられた。太陽の印は足――それも太股――に押すものなので、下着も同然の格好である。そこは皇太子といっても、下層市民と同じであった。
儀式の部屋に入ると、すでに二人の少年が皇太子を待っていた。部屋は薄暗く、三つの焼き印を熱する竈が、赤い光で部屋を照らしていた。二人の少年の顔は皇太子からは見えなかった。
ひとりは剣術で相争ったマルクト・ハーディヴァであることは知っている。もうひとりは、月佳の代わりに新たに月の文字を受けた少年である。自分は彼に、熱い焼き印を押しつける。趣向としては理解できるが、実行する身としては、悪趣味なことをしてくれたものだと思う。同じ痛みを味わった君臣は近しい仲になり、より意思の疎通が図れるであろう。しかし、自分が彼に苦痛を与えるのだと思うと、いい気分はしない。
皇太子もマルクトも月の文字を持つ少年も、黙って立会人の桂月と最初の授印者アルバインの到来を待つ。
ほどなくして二人が現れた。
「準備はよろしいかな、三人とも」
桂月が言った。少年たちは同時に、はい、と答えた。
「ではまず皇太子殿下から、元服の印をお授けしましょう」
アルバインがそう言うと、皇太子カイザールディオンは竈のまえに腰を下ろし、右足をさしだした。アルバインは、皇太子が焼き印を受ける姿勢で目を閉じたのを確認すると、竈から焼き印をとりだした。焼き印は、棒の先に鉄の焼き型がついたものである。太陽の焼き型は、アルバインの握りしめる柄の先で、あかあかと燃えていた。
アルバインは、焼き印を皇太子に密着させた。じゅう、と皮と肉の焼ける音がし、皇太子の足から煙が立ちのぼった。みるみる、皇太子の額から、頬から、首から、腕から、胴から、足から、体じゅうのいたるところから汗が噴きだしはじめた。しかし皇太子の顔には、微塵の歪みも浮かばない。彼は日頃から体を傷めることに慣れている。
アルバインは焼き印を離した。皇太子はふうと息をつき、足に冷水を注いで火傷を冷やしてから、痛々しさなどまったく感じさせずに立ちあがった。
「さて、お次は桂月師の御嫡男だな? 俺が印を授ける、前に出よ」
皇太子カイザールディオンは、竈の炎を背にして振り返った。桂月が、息子である少年の背を軽く押す。彼は小さくうなずくと、カイザールディオンのほうに進みでた。炎が少年の顔をはっきりと照らしだし、そこで皇太子は初めて彼の容貌を見た。そして、彼の誰たるかを知った。
元服する少年のなりをして、青銀髪と同じ色の瞳と白い肌の、さらしか何かで成長過程の体を隠した――それは少女・月佳であった。
「月佳、何を……しているんだ。こんなところで」
皇太子はこのとき、少女がとうの昔に自分の嘘を見抜いていたことを知った。少女は凛とした眼を皇太子に向けている。
「お初にお目にかかります、皇太子殿下。このたびは大変かたじけなく存じます」
少女は彼を皇太子と呼んだ。つい前日までの呼び名ではなく、一貴族・皇室の一配下として、彼を呼んだ。
「カイザールディオン様。これが不肖の息子、月佳でございます。以後、殿下のお役に立てるよう精進させますので、こたびはお手を患わせますことをお許しください」
炎に照らされた桂月を見れば、何もかも知っている顔だ。皇太子は愕然とした。
「私はかまわないのですよ、殿下が私の娘を姉妹で侍らせなさろうと。それを拒んだのはこれ自身なのです。これが、姉に仕えること、殿下に仕えることを望んだのです」
月佳からすべてを聞かされていた桂月は、この場に事情を知る者しかいないことを知っている。
皇太子は怒りに手を震わせた。
「月佳! どういうことだ! 決闘をなかったことにするわけか、天命に背くわけか!」
月佳がかつて見たことがないほど、カイは激怒していた。しかし、激情にほだされて決心を変えることはもうしない。月佳はそう心に誓っていた。
「あの決闘は誤りだったのです。わたしと殿下が出会ったことも、何もかも、すべて誤りだったのです」
「ふざけるなっ……!」
カイが月佳につかみかかろうとしたのを、マルクトがかばった。マルクトとは剣術大会いらい二度目の相手だが、彼は皇太子を前にしても臆することはなかった。
「ふざけているのは殿下だ。姉妹で嫁がせるなど、天に恥ずべき行為。おまけに月佳をたばかって、すべてが終わってから月佳に後悔させるつもりだったんだ。月佳がかわいそうだ! 貴男を愛していたのに」
「関係ありません、マルクト」
わたしの感情など、もはや関係ありません。月佳は淡々と、しかし明瞭な声で述べる。
「――わたしは殿下の下僕です」
少女――というよりも一介の騎士――は、刺すような視線を皇太子にむけた。わたしに、太陽をお授けくださいませ。桂月の嫡男のまなざしがそう語る。
「できない!」
皇太子カイザールディオンは叫び、焼き印を床に叩きつけた。
「本当のことを言えなかった俺は最低だ。だが、それは、だましてでも月佳がほしかったからだ! ……月佳、一生をともに歩んでくれ。メーヴェ皇太子第二妃として、ゆくゆくはメーヴェ皇帝第二妃として、一生そばにいてくれ。お願いだ」
カイは月佳の手をとり、哀願した。月佳はそんなカイを、無表情に一瞥しただけであった。
「わたしは一生、皇太子殿下のおそばにいますよ。わたしは貴男の僕ですから」
月佳は突き放すように吐き捨てると、焼き印を拾いあげた。鉄はもう、だいぶ冷めてしまっている。
月佳は竈に近寄り、焼き印を再び火であぶった。また鉄はあかあかと燃えはじめた。
「何をする気だ」
皇太子が訊いた。月佳は皇太子に視線をやってから、
「貴男から焼き印を授かることができないのなら、自分でやるしかないでしょう?」
皇太子は月佳を止めようと足を踏みだしたが、彼が彼女から焼き印をとりあげるまえに、桂月が彼を押えた。
「放せ、桂月師! やめさせろ、皇太子の命だぞ!」
「私は月佳の意志を尊重します、殿下」
彼の師たる桂月の腕はさらに力強く、皇太子を羽交い締めにして離さない。
「だめだ。だめだ。月佳を下僕などにはしたくない。心から、ほしいんだ。彼女がほしいんだ。桂月! アルバイン! ハーディヴァ! ……月佳っ……!」
皇太子の哭くような声が、儀式の部屋に響いた。役人には金品を握らせてあるので、誰も皇太子の悲痛な声のために部屋を確認しにきたりはしない。
月佳はカイを見た。泣き叫ぶカイを見た。
――ごめんなさい。
月佳は腰を下ろすと、焼き印を自分の白い太股にあてた。皮と肉が焼ける音と、匂い。熱。激痛。それらは予想以上に苦しかった。あまりの熱と痛みに、全身から汗が噴きだし、彼女の可憐な容貌は激しく歪んだ。眉をひそめ、血が顎を伝うほどに唇を噛みしめて、それでも焼き印を握る手をゆるめない。自己を失いそうな極限状態のさなか、月佳、月佳、と何度かカイが呼ぶ声を聞いた。
大好きな、カイの声。
カイは、好き。いつも一緒にいたいと思うのは好きだから、きっとカイに恋してるから。でも、わたしは何よりも優先しなくてはならないものがある。それは、恩義。戦場で拾ってくださったお義父上。孤児の、養女のわたしをかわいがってくださったお義姉様。わたしの命を救っていただいたことは、一生を賭けて返さねばならない恩。これは、わたしにとって絶対的なもの。何を捨てても捨ててはならないもの。なぜなら、今わたしの命がなければ、捨てるものすらなくわたしはこの世から消えていたのだから。
この恩は返さなければ。これがわたしの助かった意味、助けられた意味。天がわたしの命をお義父上たちに救わせたことには、きっとその意味が隠されているのだと思う。
だから。
お義姉様の幸福をお守りするために、わたしは女の性も女の感情も払拭する。
――大好きな、カイの存在も。
少女は、焼き印を自分の肌から離した。
くっきりと、太陽をかたどった火傷が足に残っている。焼き印を離したところで、痛みは残る。月佳の表情は、まだ苦痛そのものだった。生まれて初めて味わう激痛と熱さの頂点を過ぎ、彼女は肩で息をしている。汗が床に滴り落ちた。彼女は、しばらくは立ちあがれそうにない。桂月が、彼女の足に水をかけた。
「次は僕ですね。僕も、自分でやります」
マルクトは、月佳をいたましげな目でみつめたあと、自ら足に焼き印をあてた。マルクトも、痛みに慣れていないらしく、月佳に似た様相となった。
しばらくして、痛みに慣れたマルクトが、おもむろに立ちあがって部屋から出た。それに続いて桂月、アルバインも儀式の部屋をあとにした。部屋には月佳とカイだけが残された。月佳は、うずく火傷の痛みにいらだちながらも、だいぶ平静になっていた。カイは三人が、二人で話す機会を与えてくれたにちがいないと思いながら、月佳をうかがった。
「……カイ」
先に沈黙を破ったのは月佳であった。
月佳の顔は、先ほどのものとはちがい、いつも少年カイとじゃれあっていた少女のものであった。
「約束を破ってごめんなさい。それでもわたしは、お義姉様の幸せを壊したくなかったの」
わかっている、とカイが吐き捨てた。それがわかっていたから、俺はおまえをだまそうとしたんだ、とも言った。
「これからわたしは、本当にカイの下僕です。また、お義姉様の下僕でもあります。また、お義父上の下僕でもありますので、お義父上のお望みどおり、仕官します」
それでも。と、少女はくちびるをかすかに動かした。
少年は、少女の目からこぼれ落ちる涙を見た。輝く青銀の双眼が、そのしたたる雫のために、より宝石に近づいたようだった。うす青く、きらめいている。
――わたしを、忘れないで。
それは彼女が、ひとりの少女として、少年にいった最後の言葉だった。
――わたしを、忘れないで。
わたしがあなたを好きでいたこと。女の子だったこと。あなたとの幸せを夢みてたこと。……わたしのこと、覚えていて。
青銀の瞳、青銀の髪、白磁の肌。そしてその言葉。それら幻想的な彼女の幻影は、若干十四歳の少年を縛るには十分なものであり、また彼女自身、その意図がないはずもなかった。
彼女は英雄の嫡男であるまえに、少女であったから。
少年が、ただひとりの彼女のために束縛され、自由を失うであろうことは、歓びであったから。それに足る魅力をもっていることを、自分でも知っていたから。
「さようなら、カイ」
少女は立ちあがった。戸籍を更新するために。
「月佳、待て……」
カイは月佳を抱きとめた。頼む、お願いだから儀式をやりなおしてくれ、となおも懇願する。うしろから抱きすくめた少女の、耳元でくりかえす。
少女の肩に、少年の涙がしたたった。彼の涙を見るのは初めてだった。少女は自分の涙を拭い、すっかり力が抜けてしまっているカイの手をあっさり振りほどいた。少年の涙を唇でそっとすくいとり、それから少年の唇に唇で触れた。
そして、カイの肩を軽く押した。カイはふらりとその場に座りこんだ。
その少年にむかって、少女は微笑み――少女らしくない高慢な――を見せ、踵を返した。
再び振り返ることはなく、まっすぐ、その先に踏みだした。
* * *
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
To be continued.
