少年は、大勢の女官に、なかば押しつぶされる格好で着つけられていた。
少年の立場にふさわしい盛装を、彼はたいそう嫌って逃げようとするのである。武術に通じている少年を、これまた武術に通じた女官が四人がかりで押さえこむ。少年が身動きできないうちに手早く着つける。無事、着つけが終わったあとも、隙あらば脱ごうとするので、そうなる前に彼の愛妹を呼んでおく。愛妹が腕を絡めてしまえばもう逃げだせない。そうして彼はいつも、必ず強制的に、晩餐や夜会に参加させられるのである。彼は堅苦しい場所が嫌いであった。
パリリアが終わったその夕べ。今宵の晩餐は、彼と婚約者が主役だ。一応はパリリア祝会という名目だが、婚約者のお披露目というのが真の目的であった。公には、このときが彼と婚約者の初対面である。が、実際はちがう。彼はときおり城を抜けだしては見聞を広めているのだが、その際ついでに婚約者の家を何度か訪れた。
着つけはいつものように反抗してみせたが、今日ばかりは出席を拒むわけにはいかない。あの婚約者はどうも、感情の浮き沈みが激しいらしいから。すっぽかそうものならどう反応されることかわかったものではない。それに、婚約者はかの英雄・桂月の愛娘である。桂月を怒らせるのはもっと恐ろしい。
少年は盛装がすんで冠を戴くと、大人しく妹が迎えにくるのを待った。利発な妹カナンヴィリア――通称カナリア――が彼の部屋を訪れるのが、彼にとって晩餐の始まりなのである。カナリアは予告なしに部屋に闖入する。兄に逃げられないためだ。それは今日も同じであった。
「お兄様、そろそろ参りましょうか。桂月殿も棕櫚嬢もいらっしゃいましたわよ。……あら、今日はやけに大人しくしてらっしゃったのね」
カナリアは、くす、と笑みをこぼしながら兄の腕を抱いた。兄はうとましげに宙を見る。
「棕櫚嬢は正直、苦手な部類だ」
「ああ、もうお会いしていたのですわね。でも、仕方がないですわ、お父様はお気に召してらっしゃるから。もう、第一夫人には棕櫚嬢を迎える他ないでしょう」
「実は他に第一夫人に迎えたい娘がいるんだが、親父殿に逆らうと廃嫡されかねんな」
兄の言葉に、妹は驚いた。好色な父のために、女には辟易していたらしい兄。その兄に、意中の人ができたとは。が、どうせ宮殿にはいない系統の女に惹かれているのだろう。
「棕櫚嬢も哀れなことだ。そんなに棕櫚嬢がお気に召したなら、親父殿が彼女を妾にすればいいものを」
「天下の桂月殿の御息女を、よもや妾になど、誰が迎えられるでしょう。そもそも、桂月殿の溺愛ぶりはただごとではないと聞きます。妾にするくらいなら、マディナの富豪にでも嫁がせておしまいになるのではないかしら」
少年は嘆息し、うつむく。彼の仔鹿色の細い髪、同じ色のまつげが深緑の眼をおおう。少女も、同じ仔鹿色の髪とまつげ、深緑の眼で、しげしげと兄を眺めた。兄の愁いなど、手にとるようにわかる。この世に生を受けて以来、この兄とは片時も離れたことがなかったのだから。同じ母から生まれ、同じ場所で過ごしてきたのだから。
父は好き者で、数多くの女を侍らせている。また、数多くの男もいる。女たちと同様、彼らも愛する。ただし、あくまでその体を。精神まで愛したのは、おそらくは自分たち兄妹の母セシリアだけなのだろうと思う。それを証明するように、後宮の名はセシリー宮、母の愛称である。母は死んだわけではない。ただ、徐々に肉体が衰えてきただけだ。父は、母の容貌と肉体と精神とを、合わせて愛した。
母は三十代後半、もちろん精神に衰えはないけれど、容貌と肉体をともなわなくては、あの好色な父の心をつかんだままではいられなかった。兄はそんな父を憎んだ。自分の醜さを省みよ、と彼はしばしば父にいう。父はかつて愛した妃セシリアの産んだ皇太子を愛してはいたが、彼の声は父に届かない。みずからの愚鈍さも、醜さも、父は知らない。
そんな父の愛を受ける女たちも、男たちも、同様に醜い。美しいのは造りだけ。彼らは父に媚び、兄に媚び、カナリアに媚びる。皇帝の子を宿した者に媚びる。しまいには誘惑する。兄はかつて女たちの誘惑の絶好の対象だった。まだ歳幼く、純朴であった頃だ。しかし、おかげですっかり兄は誘惑など意に介さなくなった。それどころか、女たちを毛嫌いするようになった。
そんな兄太子――想う女性が現れて本当によかった。けれど、父を嫌う兄だけに、その女性を想いながら他の女性を娶るのは耐えがたいだろう。正夫人にしたからには、彼女に子種を宿さなくてはならない。
「おかわいそうなお兄様」
カナリアは心底、同情する。
「おまえも同じ穴の貉だろう、カナリア。忘れたとはいわせない」
「忘れたことなどありません。でもお兄様、……おかわいそうに」
兄妹は階段を降りていった。長く赤い絨毯を進むと、先にある扉のむこうから笑いさざめく声が聞こえてきた。行くか、と兄が声をかけると、扉は静かに開かれた。
晩餐の一角では、ヘイゼルグラント将軍とその娘、そしてアルバイン将軍が談話している。話しかけたのはアルバインだ。当たり障りのない世間話をしながら、本題に近づける。
「して、貴公の家に仕えているディアークという者のことなのだが」
棕櫚は嫌な顔をした。桂月もである。
「彼は今日、競技大会棒術の部で優勝したよ。もし優勝したら私の養子にしてやる、とうっかり約束してしまってな。約束は守らねばならぬ。支障がなければ、彼を私にくれ」
桂月は明らかに顔を歪ませたが、ここで拒むことはできない。なぜならディアークは、表向き大した仕事をしていない。たかだか門番である。それを手放したくないなどといえば、何を疑われるかわからない。
棕櫚は、稚児のことで苦悩する父親を軽蔑した。男色趣味は彼女の許容範囲外である。そのような男とだけは結婚したくない。結婚は想い想われる幸せなものでありたいというのが彼女の理想である。男色者の父と結婚した母はどんな思いだったのだろうか。
「お父様、よいではありませんか。何をためらうことがあるのです。アルバイン将軍のお家に入るのがディアークの望みなら、叶えてあげましょう。それに、こうしてアルバイン将軍御みずからおっしゃっていることをむげになどできますか」
「そうだな、やってもよい。いや、喜んで、やろう。ディアークは月佳にとってぬるま湯だからな。早く月佳をぬるま湯からあげてやらなくてはならぬ」
何ら問題のない、娘思いの父の言葉であった。
「そうか、ありがとう」
破顔して答えたアルバインは、桂月の嗜好を知っている。月佳から伝えられたからだ。それにしてもこの父娘は、暗い。明らかに陰気な顔をもっている。養女の月佳とは大ちがいだ。これがヘイゼルグラント家の性質なのだろう、とアルバインは思う。
「ところで今日の競技大会、推挙に値する者は?」
桂月は半ば逃げるように話を変えた。アルバインはそれで思いだして手を打つ。
「そうだ、忘れていた。ぜひとも推挙したい者が三人いる。剣士だ。その名はカイン・ビスマルク、マルクト・ハーディヴァ、それにカイ・シーモア」
「ビスマルクは……子爵家の長男か、すでに隊を与えられていたはず。それほど腕が立つなら、次は近衛隊をまかせてみるか。ハーディヴァ、ハーディヴァ。聞いたことはないが、名前から察するとマディナの商人だな。しかし、だ。ロガートよ、おまえ、カイ・シーモアは……」
桂月が笑いを堪えている。棕櫚は首を傾げた。アルバインは、知った名か? とばかりの顔で、桂月を見た。
そのとき、小気味よく靴音を鳴らして少年と少女が近づいてきた。
「アルバイン、とうとう耄碌したか」
少年は容赦なく笑いとばした。少女もくすくす笑っている。
「皇太子殿下! 皇女! 私は決して耄碌など……」
アルバインは困惑した。そこで桂月が、ようやく教えてやる。
「皇后陛下の旧姓は」
「皇后陛下の旧姓……? そうか、セシリア・シーモアと」
皇太子はさらに言う。
「だいたい、こうして俺とおまえはしょっちゅう会っているのに、なんで顔を見てわからなかった」
「近眼と老眼の両方でして」
六将軍のひとりロガート・アルバインはすっかり弱ってしまった。
「こうもなった以上は、じきに引退するほかありますまい」
「ははっ、そこまでしなくともよい。お前は忠実で有能な臣、おまえを失うときはメーヴェがツィリマハイラに消されるときだ。まあ、それはともかく、マルクト・ハーディヴァの推挙だけはよろしく頼む。やつは強い。おまえも観ていただろう、おかげでこの俺が凖決勝止まりだ。今年こそ優勝と思っていたものを」
皇太子は実に悔しそうである。彼は、自分の剣術の師である桂月以外には負け知らずだったのだ。それが、互いの剣が折れたことで試合の決着となってしまい、ハーディヴァとの勝敗が曖昧なままなのは不満であった。できるならもう一度ハーディヴァと試合したい。そのためにハーディヴァの推挙を頼んだようなものだ。
「ということは、皇太子殿下、貴男はまたしてもご身分を濫用して、元服もしていらっしゃらないのに大会に出場なさったということですか」
桂月は呆れ顔だ。棕櫚は、まあ、と口を手で押えた。
上品な仕草であった。申し分ない。しかし、そんなものは宮廷にいる女なら誰でももっている。彼女は絶世の美女のひとりにはちがいないが、ただの美女なら後宮で腐っている。美しいだけの、身分が尊いだけの、上品なだけの女などほしくない。ほしいのはかつて見たことのない女。美人でなくても、スラムの住人でも、そんなものは何でもよく、ただ自分だけの唯一の女がほしい。きっと自分はそんな女とすでに出会っている。それでも棕櫚を娶れとは、親父の頭以上に腐敗の進んだものはない。
皇太子は婚約者に微笑み、彼女の前にひざまずいた。棕櫚の白く美しい手をとり、くちづけた。棕櫚の頬にさっと赤みがさし、周囲の貴族たちがどよめく。実は誰もが、皇太子と棕櫚・フェランドゥ・ヘイゼルグラントの婚約を知っているのだが、そうやって驚いてみせるのが宮廷の慣習であった。
「挨拶が遅れました、棕櫚嬢。お初にお目にかかります。私がメーヴェ皇太子カイザールディオン。貴女には私の妃になっていただく」
棕櫚は目をうるませる。そしていよいよ返辞を述べる。あたりは静まりかえった。
「うれしゅうございます……」
貴族たちは歓声をあげる。前もってその役目をまかされていたであろう者が、銀のゴブレットを高々とあげ、叫ぶ。
「皇太子カイザールディオン殿下と、未来の皇太子妃・棕櫚嬢に乾杯!」
一同は乾杯、と声を合わせ、杯を空けた。皇太子も、のちの皇太子妃も、ぶどう酒を口にする。そのとき、皇帝が感極まって立ちあがった。
「私の愛し子と、その麗しの君を祝福しよう」
会場は歓声で耳がつんざけんばかりであった。みな、内心はどうあれ、表面では喜んでいる。表面からして喜んでいないのは、皇女カナンヴィリアただひとりであった。
そうして、上々の首尾でパリリア祝会を終えると、晩餐の主役も貴族も家路についた。人のいなくなった晩餐の席を、少年は見渡し立ち尽くす。
――月佳。月の文字、桂月の養女、棕櫚の義妹、……それでも。
少年は踵を返した。深青のマントがひるがえる。仔鹿色の髪が揺れる。深緑の目は、ただ前を見据えて。イフィーズ城の大理石の廊下に、彼の足音が空しく響きわたった。
彼の名はカイザールディオン・セルウェンティノ・メーヴェ。かつて現メーヴェ皇帝イフィーズ八世の寵愛を一身に受けた正妃セシリア・シーモアの息子にして、メーヴェ帝国の皇太子――月佳の義姉・棕櫚の定められた夫である。
