前編 - 2/2

 その日は晴れていた。
 そのため、リュン=リエは舞台衣装の洗濯に追われていた。忙しなく働く少女、彼女の前に突然、剣を帯びた四人の男が立ちはだかった。その肩と剣には、皇帝の紋章。
「アン=リエ舞踊団の者だな。アリィシア殿は、ここにおいでか?」
「アリィシアをお探しですか……? 彼女なら、ひと月ほど前に皇帝に召され、今は皇城にいるはずです。あなたがた、皇帝の御使者と見受けられますが、どうしてそのことをご存じないんでしょう」
 リュン=リエはとぼけたつもりは毛頭なかったのだが、歳のわりに大人びた口調で、男たちの期待に反した返答をしたので、結果、彼らの怒りを買うことになった。
「娘、隠しだてするとは、命が惜しくはないのか!」
 男の一人が怒鳴る。それを耳にして、団員が続々と集まってきた。
「隠しだてしようにも、それ以前に何のお話をしていらっしゃるのか、私には見当もつきませんが!」
 負けじとリュン=リエは叫ぶ。実際、アリィシアが何かしたらしいことはわかるものの、舞踊団を出た者のその後など、リュン=リエが知るはずもない。彼女は舞踊団の外で暮らしたことがないのだから。
「そこを退け! テント内を捜させてもらう!」
「あなたがたは、何の権利があってそんなことができるんですかっ! いくら皇帝だからって、舞台裏に踏みこませるわけにはまいりません」
 少女はテントの入口に張りついて立つ。
「皇帝の命ぞ。逃亡した元側女、アリィシアを殺せと」
「アリィシアが……逃げた?」
 驚きのあまり力が抜けた彼女は、男に乱暴に退かされ、ふらりと倒れそうになった。そこに、少女の様子を見守っていたクラウディナが駆け寄る。彼は、当時十二歳のその少女の名を呼んだ。少女はそれに応え、少年の名を呼び返した。
「アリィシアが逃げたなんて、そんなばかな。信じられない。彼女、これでもう、ちがう男の相手しないでいいとか言って喜んでたのに、なんてことを。よりによって、皇帝から逃げるなんて……信じらんないよ、クラウディナ」
 クラウディナに抱き起こされて、リュン=リエはぼやく。
 少年は答える。
「アリィシアが求めていたものは、皇城にはなかったんだよ……きっと」
 ようやく彼女は立ちあがり、使者を追った。アリィシアには本当に会っていないし、もちろんテント内に匿ってなどいない。いくら捜そうとも彼女はいないのに、不毛な捜索でテントを荒らされるのはいやだった。
「お待ちください! 御使者様!」
「やめろリュン=リエ! 好きにさせよう」
 リュン=リエはクラウディナに諭されて足を止めた。「じゃなきゃ、殺される」
 命は惜しい、それはそうだ。だけど、なんだかとっても悔しい。力に屈服しなきゃ殺されるなんて。
 ――悔しい!
 そう思ったとたんにリュン=リエは踏みだしていた。楽屋に入っていった男を追い、入口を潜る。クラウディナの制する声も届いていない。そこで少年は、彼女が楽屋に入るのを見届けるより先に、団長アン=リエに知らせに走った。
「御使者さま、本当にアリィシアは来てないんです。勝手に決めつけてうちを荒らして、あんまりじゃないですか。それでアリィシアがいなかったらどうしてくれるんです? もうすぐ公演だってあるんですよ」
 使者は彼女の言葉を聞き入れず、黙々と楽屋のあちらこちらを探る。
 並べてかけてある衣装を、一枚一枚、床に投げ捨て、化粧道具の入った鏡台を倒し、そこに誰かが潜んでいないかを確認する。衣装は床の埃に塗られ、白粉や紅があたりに散乱した。
 やがて使者は、中央の柱にかかっているカーテンを開けた。カーテンのむこうには、人気踊子用の高価な衣装がかけられている。それをも使者は床に投げ捨てていき、一枚を残して他のすべての衣装を床に放ったそのとき、最後の一枚の、もっとも豪奢な衣装の陰に女が身を隠しているのが見えた。
 リュン=リエは絶句した。女はまさしくアリィシアだったのである。
「アリィシア殿ですね」
 使者は冷淡に言った。アリィシアはひどく怯え、応えようとしなかった。だが、まだ助かる余地があるとも考えたのかもしれない。しばらくのあいだ怯えきっていた彼女が、思いたったように顔をあげて答えた。
「私がアリィシアです」
 そう名のったときの彼女は凛として、以前にまして美しかった。
 行方不明の元側女をついに舞踊団で捕捉した使者は、やはりと言わんばかりに視線を投げた。その視線を受け止めてから、リュン=リエはきまり悪くアリィシアのほうに目を逸らし、おそるおそる口を開いた。
「アリィ」
 かつての――舞踊団時代の愛称で呼びかけた少女に対して、皇帝の元側女はうれしそうに目を細める。変わらない彼女の笑顔を見て、リュン=リエは少し安心し、座りこんだままのアリィシアに駆け寄ろうとした。そんな少女を、新たに入口から入ってきた使者の一人が羽交い締めにする。
「リュン=リエを放してください! その子は関係ないんです。私が勝手にここに入りこんだんです、舞踊団は何も知らないんです!」
 アリィシアは叫んだ。しかし使者はあがくリュン=リエを捕らえて放さない。
 もう一人が、アリィシアの前に進む。
「アリィシア殿、あなたにはもはや何の権限もない。私たちに命ずることができるのは、皇帝と御一族、そして寵を受けているかたがたのみ。一度は皇帝の寵を受けておきながら、あの方の御顔に泥を塗り、寵を失ったあなたに、従うことはできない」
 いったんは凛としたアリィシアの表情が、みるみる歪んでいく。皇帝を裏切った者の運命が、いよいよ現実味を帯びだしたのを感じたか、床についた手が震えている。
(好きにさせよう。じゃないと、殺される)
(皇帝の命ぞ。逃亡した元側女、アリィシアを殺せと)
 リュン=リエは、とっさに目を閉じた。
 それでも、彼女はいまだに思う。皇室の人だって自分と同じ生き物だ。あたしはクラウディナがどこかに行ってしまっても、生きててほしいと思うもの。きっと、そう思うのは同じなんじゃないかなあ? 好きな人はとにかく生きててほしいって、思わないのかなあ? 思うよね。御使者やクラウディナが言ったことは、あたしを怖がらせるための冗談でしょ。きっと、これからアリィシアをお城に連れて帰って皇帝に謝らせるんだ。黙って出ていってごめんねって。
 心の底では理解しながらも、目の前で起ころうとしている出来事を現実のものとは信じる気になれず、続く瞬間に目の前にあるのは捕われただけのアリィシアなのだと強いて思い、彼女はゆっくり目をひらいた。
 しかし、現実に起こったのは、やはり予想どおりのことであった。
 目を開くと、使者が剣を鞘から抜いたところだった。使者は剣を振りあげ、下ろす――アリィシアの露出した肩へ。彼女の白い首と腕の付根のあいだに、残酷な光を放つ刃が通る。
 時間はゆっくり動いていた。剣が振り下ろされてから、アリィシアのからだに刃が通り、剣先の軌道に彼女の鮮血がともなうまでの経過が、はっきりと見てとれた。
 鮮血が地に舞い落ち、時間が元の早さに戻ったとき、アリィシアは地に臥した。一閃のもとに彼女を倒した使者は、ガーゼを取りだしてその血を拭っている。リュン=リエを押えていた使者は、ようやく少女を解放した。
 もはや自由だというのに、少女は動けなかった。足も手も動かない、全身が硬直している。声も出ない。叫びたいのに力が入らない、顔の筋肉さえ動かせなかった。目は見開いて――見たくない、目を覆いたいのに、否が応にもアリィシアを見る。
 倒れた彼女のからだから、とめどなく血があふれていた。心臓の脈打つ音さえ聞こえそうだ。それでもなお、彼女の指や目や口は、力なく動いていた。
 リュン=リエはアリィシアの最後の言葉を聞いた。
「団長、リュン=リエ、みんな……ごめんなさいね、……許してくださいね。だってあのエロジジイ、お金もらって服買ってもらって宝石もらっても、好きになれなかった……あんなのと一生過ごすなんて、死んでもいや……」
 もう一人の使者が彼女の背に剣を突き刺したので、それで彼女は動かなくなった。
 その後、リュン=リエは使者によってアン=リエのもとに連れられる。アン=リエは呆然とする娘を抱いたあと、地に伏して皇帝の使者に謝罪した。クラウディナを含む踊子たちもそれに倣った。そして、謝罪の証として、美しく賢い人気の踊子を皇帝の側女に献上し、アン=リエ舞踊団への咎めはなしとされた。
 それから、リュン=リエが恐ろしい記憶を覆い隠すまでの経過は定かではないが、そうして彼女は立ちなおっていったのだ。
 しかし、封の解かれた記憶が彼女を揺るがす。
 突然、リュン=リエは顔を覆った。
「やめて! 殺さなくてもいいじゃない! なんでそんな簡単に殺せるの? 好きな人を殺せるの? あたしはそんなことできないよ! お母さんが動かなくなるのなんて考えたくない! クラウディナがそうなるのもみんながそうなるのも、アリィがそうなるのもいやだ!」
 あのとき叫べなかった言葉をいま叫び、あのとき覆えなかった目をいま覆っているのだった。
 驚いたラケルがリュン=リエを見やる。その場にいた全員がリュン=リエに注目し、三年前の事件に居合わせた者はみな、彼女がもっとも恐ろしい目に遭ったことを思いだした。月佳とエルテナは、リュン=リエのあまりの剣幕に唖然としている。クラウディナは、自分が「好きな人」の名前にあがったので心底うれしかった。そういう場合ではないのだろうが、ちょうどいつものけんかをしたばかりだったから仕方がない。
「お願いだからやめて……殺さないで。剣抜いたらいやだ、アリィが動かなくなるのはいやだ、やめてよ……やめて」
 ついには叫び声が泣き声に変わり、とうとうリュン=リエは本格的に泣きだしてしまった。ラケルが罪悪感と自己嫌悪に襲われているので、気にしないほうがいいよ、と声をかけ、クラウディナは席を立った。小さい子供のようにしゃくりあげるリュン=リエの手を引き、テントの外に出た。
 外は夕暮れだった。クラウディナは橙色に染まるテントの裏で、彼女の髪をなでた。
「アリィは確かに死んでしまったけど、アン=リエ団長は世渡りうまいから大丈夫だよ。僕も、そんなに器用じゃないけど当分は平気だ。皇城での踊りも、ラケルたちには悪いけどうまいこと目立たないやつ選ぶつもりだし、それに、宦官に手をつけても、まさかほんとの男を側女にしようなんて思わないはずだよね。変態じゃないんだからさ。みんなもアリィのことで学んだんだ、もう逃げようなんてしないよ。そのうちここからはいなくなってしまうかもしれないけど、みんな生きてるよ、きっと。理屈こねるのは苦手なんだけど……元気だして。しっかりして、リュン=リエ」
 クラウディナは、うまくいえない自分が情けなくなった。落ちつきを取り戻してきたリュン=リエは、涙は止めることができないまま、顔をあげた。
「もうアリィみたいに、あたしの目の前で死んじゃったりしないかな」
「病気とか歳とかならわからないけど、殺されることはないよ。いやな言いかただけどね、……ちょっと利口になったから」
「そうだよね、ばかでまずいのはいつだってあたしだよね。……うわあ、なんかあたし、急に泣き叫んで取り乱して、恥ずかしい! もう月佳嬢とエルテナに顔合わせできないよー」
 大急ぎで涙を拭う。
 いきなり普段のリュン=リエに戻ったので、クラウディナは微笑んだ。
「宴会ほとんど顔出さなくってごめん! 顔洗ってもう休むね、あたし。クラウディナ、ありがとう。あと、今日はごめんね。あれ、嘘だから、忘れてね。あ、ラケルたちにも謝らなきゃ」
 そう言って彼女は、生活用のテントへ帰っていった。
 クラウディナは、「嘘だから」と言われたことが何を指すのか、彼女と仲直りできたこと、彼女がいち早く自分を取り戻してくれたこと、彼女が自分に何であれ好意をもっていることがわかったうれしさで、その場ではあまり考えなかった。
 あとで考えてみれば、ラケルの名が出たことから、皇帝の招待を喜んでいたことを指し、あの言葉は彼女自身がそう思いこもうとしてたからだということがわかるのだが、ひとまずクラウディナは、彼女に通じるよいことばかりが自分の機嫌に作用して、自分の人生に関わる嫌悪すべきことが作用していない、楽観的な自分がおかしくもあり、愛おしくもあるのだった。
 パリリアまで一週間、皇城行きまで五日。
 ――なんでだろう、なんとなく、パリリア公演も皇城公演も、エルテナのこともリュン=リエのことも、全部うまくいくような気がする。……