05. 夢の庭にて - 3/4

 深い〈毒の海〉の水底に、かつて栄華を極めたメサウィラ帝国はある。
 そこは、想像したとおりの水色の世界だった。
 定員わずか六人の小さな海底探査船の天井は、トリゴナルの外壁と同じ強化ガラス製で、視界いっぱいに〈毒の海〉の風景をみることができた。どこまでも透明なアクア・ブルーの海は、どんな生物も生きられない猛毒の水とは思えないほど明るく、はるか遠くまで見渡せる。
 見上げれば、頭上高く水面にさしこむ光。振り返れば、遠ざかっても消えないトリゴナルの姿。
「二百キロぐらい離れても見えるよ」
 と、操縦席のとなりに座る叔父が言う。「われわれを苛む〈毒の海〉ってやつは、視覚的にはまことに美しいもので……悔しいね」
「何と戦ってるの、叔父さん」
 サイレが返すと、叔父は自分でもおかしいという様子で笑みをもらした。
「とうてい勝てないもの相手でも、つい戦いを挑みたくなるのは人間の性ってやつかね。それとも、男の、かな」
「それはどうでしょう。〈毒の海〉研究に従事するのは男性研究者だけではありません」
 とは、カタレナ。「個人的なことをいえば、たとえ滅びの日がわかっていても、私は自分のやるべきことだけをやります。天文歴史学が私の専攻で、歴史を記述する以外のことはできかねますから」
「君はそれでいい。それぞれが自分の分野に従事しなければ、それぞれの視座を統合した新しいものは見えてこない。……サイレは? 何をする?」
「おれは……」
 エンジュに会いたいだけ、というわかりきった言葉はのみこんだ。もう、トリゴナルKどころか全トリゴナルに知れ渡っている気持ちだ。それでも、自分が口にするのと、他人が口にするのとでは、言葉の力がちがう。
 わかっているよ、というように、叔父も小さく笑っていたし、カタレナはもっと同情的な目つきだった。
 カタレナは叔父の助手だが、天文学よりも歴史学寄りの研究者であって、叔父の今の方向性には懐疑的だ。なにせ本来は歴史の隅々に光をあてるのが野望のはずだったのが、今や自分の研究によって人類の未来を救おうというのだから。
 けれど、
(カタレナさんがどんなにメサウィラ帝国期の歴史を記述しても、人類は救われないし、おれも救われない)
 絶望。自分の見ているまえで、彼女が男のために服を脱ぎ落としたときの。
 いや、それとも失望なのだろうか? 彼女なりに男に誠意を尽くそうとしたことだというのに、それを認められないのか。しかも男は、予想を超えて彼女に誠実だった。自分よりよほど誠実で、敬意しか感じないのに。

 ――やめて!

 あのとき、サイレは叫んだ。
 エンジュには、届かなかった。
 なぜなのかはわからない。あるいは、まえに届いたと思ったこと自体――サイレのみならず叔父たち研究者の――妄想だったのだろうか。
 声も届かない、止めることもできない、動かすこともできない。まるで端末で閲覧する市民プログラムの映像のように。いや、端末があれば、フィードバックを送信したり、買い物したりすることもできるのだから、映像のほうがまだましだ。
 見ているだけ。エンジュが苦しむのを、おかしなところに行こうとしているのを、ただ見ているだけ。あれが彼女にとっては正解で、サイレの正解などひとりよがりにすぎないなら、そう言ってほしかった。
(言って)
 ひりつく願いが、サイレのなかでこだまする。(君の声が聞きたい。君の歌が)
 踊りなんか、もうたくさんだ。サイレは思う。エンジュにあんな踊りは似合わない。
「ああ、ここだよ、サイレ。見てごらん」
 叔父が言って、探査船は水色の世界のさなかで停止した。相変わらず、背後には遠く、トリゴナルKの影がみえていた。
 ここだといわれた場所は、特に何があるというわけでもなかった。風化した大理石の列柱が立ち並んでいるわけでも、建築物の基礎があるわけでもない。
 穴だった。ぽっかりと空いているのではなく、なにか歯か根を引き抜いたあとのような。実際、そういうことなのだろうが。
「ここが、メサウィラの樹上城」
 サイレは強化ガラスを通して、目の前にひろがる穴をみた。あれだけの巨木だったのだ、根は深く伸びていただろう。入り口は広かったが、縦穴はどこまで続いているのか、途中で狭くなったり枝分かれしたりしているのか、探査船の中からは判然としなかった。
「アルキス一世の死までだったよね。メサウィラのことで、教科書に書いてあるのは。本拠地の樹上城がどんな最後だったかなんて、全然」
「メサウィラは記録には恵まれていてな。最後のことは正確に知られているよ、もちろん中等教育までの教科書なんかでは扱わないがね。なかなかドラマチックなんだ。
 まず、若き英君アルキス一世がその妃に刺殺される。そのあとだ。樹上城の大樹が〈毒の水脈〉の毒に冒されて腐りだしたのは。なにせ内部に住んでいるわけだから、異常にはすぐ気づいた。〈恵まれた中洲〉と呼ばれる土地、〈毒の水脈〉の毒からは安全に隔てられていると信じていた樹上城の貴族たちはさぞかし絶望したことだろうよ。
 腐った大樹がとうとう倒れたとき、英君に殉じて樹上に残った者もいた。だが多くの人間は自分が生きることを選んだ。記録を残したのは、逃げだした貴族の一家だった。その家は〈毒の海〉が迫りくる人類の歴史のなかで生き残り、今なお家名を残している。
 ともあれ、アルキス一世の死後も、メサウィラは存続した。王族には兄弟が山ほどいるからな。メサウィラの帝王一家には、帝王の冠を手に入れた者以外は奴隷として追放する慣習があったが、運よく生きのびたやつが次に冠を戴いた。だが、長年ただの奴隷だったやつが帝王として国家を治められるか? そんなわけでメサウィラは、まず特権の象徴だった本拠地の樹上城を失い、時間をかけて弱体化していった。後世の歴史研究者には、ほとんどアルキス一世の時代しか問題にされない。たった一代きりの、夢の帝国」
「ほんとうに、先生は夢想家なんですから。天文歴史学者というよりは、語り部にでもなったらよろしいですわ」
 カタレナが冷ややかに断言する。
「手きびしいね。だが夢想家は事実だ。なにしろ、人類が〈毒の海〉に追いつめられてきた歴史を変えられるのが自分かもしれない、などと思っているんだから。さあ、どうだ、サイレ」
 叔父は、樹上城の根があった穴を、大げさなしぐさで示す。
「あそこに、おまえのエンジュがいた。今のところわずかな期間のようだが……、先のことはまだわからない」
「うん」
 座席から身をのりだして、叔父はサイレを引き寄せた。
「今、エンジュはどこにいる?」
「どこに……」
 エンジュのメモリアが、この世界でたったひとりのサイレを選んだように、なにか特別な力が自分にはあって、エンジュの居場所を感じられたらいいのに。
「サイレはどう感じる?」
「なにも。ほんとうに、叔父さんは夢想家だ。メサウィラの今を見たら、おれが何か感じとると思った?」
「そう、夢想家だからな」
「ただせつないだけだ。とっくの昔に失われたものを、こうして目の当たりにして、せつない、苦しいだけ」
 あの日、エンジュがトカゲに乗って降りてきたあの巨大樹が、今はもうその根が生えていた穴が残るだけ。不思議と、メモリアが見せたあの場所のまとう気配が、がらんどうの穴にも残されている気がしたが、だからといってエンジュがそこにいるわけでもない。
 トカゲにまたがって幹を垂直に舞い降りてきたエンジュの姿をみつける、何も知らないメサウィラ人になりたかった。突如として頭上から現れた少女とトカゲに目を剥いて、それから、少女に目を奪われる。
 樹上城の根もとに駆け寄り、少女に問いかける。
 ――きみは、だれ?
 エンジュは、答えてくれるだろうか。笑って、くれるだろうか。歌ってくれる? エンジュと一緒に歌えたら、どんな気分だろう?
 エンジュはもはや、子ども時代のように純粋に歌を愛するのではなく、ある「目的」のために歌をうたう。
〈星々の庭〉……そこで待つ男。
 あんな、夢の男なんか! 踊り子の男のほうが、実体をもつだけまだましだ。それに、ユーダはエンジュが芸人一座の仲間として旅また旅で一生を終える人ではないことをよく理解していて、自分の身をさしだしたエンジュに応じなかった。
 あの夢の男をみていると、なにか納得できないものを感じる。どうせあれも夢であって実体でないなら、サイレがそこにいてはいけない理由があるだろうか? だが、エンジュの現実と同じように、エンジュの夢にもサイレの手は届かない。
 あげく、サイレの現実は、歯が抜けた痕のような水没した深い穴。失われたものの痕と、失われたものの記憶だけが、サイレの現実に与えられる贈り物だった。
「叔父さんは意地悪だ。おれがせつないの、わかってて連れてきた」
「それはかわいらしい誤解だ、サイレ。別におまえにせつながらせたいから連れてきたわけじゃない。おまえのせつなさとやらが、なんらかの効果をもつ可能性を期待して連れてきた。純然たる研究目的だ」
「同じでしょ。もう少し、甥の気持ちに配慮してよ」
「配慮してるぞ? だって、愛が奇跡を起こすかもしれないじゃないか。奇跡を起こせば、エンジュに会える。そうなったらうれしいだろう? というか、頼むから起こしてくれ。おまえの愛の奇跡に、人類の未来がかかってる」
「勝手なこというよ」
「さすがに引きますわ、先生」
「そうか? そんなつもりないんだが」
 うなずく乗員たちに、叔父は首をかしげた。小さな探査船は樹上城の痕に背をむけ、遠くにみえるトリゴナルの影に針路を変えた。