03. 理論上、絶対 - 5/6

 はっ、と息を吸う。とたんに四肢に激痛がはしった。
「痛……」
 眼をひらくと、エンジュはやわらかな寝台に寝かせられていて、視界に紗がかかっていた。寝ぼけているのかと思ったが、実際に寝台に薄布がかけられていた。
(まだ、夢?)
 寝台を包んでいる薄布は白く美しかった。ティンダルの花嫁衣装よりもずっと。
 しかし、それは赤く染まってしまった。振り払うように頭を振り、エンジュは薄布の外に出た。痛む足は、思うように動かなかった。
(どこ、なの?)
 目の前の光の中に、ふらりと進み出た。その先に、――足もとがなかった。眼下に遠く、〈草の海〉。麦粒のような街。あたりには、雲が漂う。
 ――高い。
 からだが浮いた。エンジュは叫びそうになる。
「まだ寝ていなさい。手足の傷もあるし、草の毒も抜けきっていない」
 男の腕に抱きあげられていた。ティンダルの男と同じくらい――いやもっと、いかつい腕。夢の続きなどではない。現実だ。
「窓には近づかないように。今のあなたは判断力がまともではない。落ちれば無事ではすまない」
 エンジュは、自分を抱きあげている男を間近にみた。目の前に大きな傷がある。古い傷が男の顔を縦断していた。そのそばにある眼は、不思議にやさしい。
「ザイウス・パンタグリュエル。ザイウスと」
 男はエンジュのからだを寝台に戻した。
 軽々と、けれど丁寧にエンジュを扱う男は、ティンダルでは見たことがないぐらい背丈が高い。馬上でアルバ・サイフを扱うティンダルには、あまり大柄な男はいなかった。
「わたしはエンジュ。あの……わたしを助けてくださったんですか」
「助けたのは、どちらかというと彼だな。彼女か。どっちだろう」
 男の視線の先に、ルルが寝そべっていた。きれいに洗われ、馬のようにくつわをかけられていた。革製のくつわに飾りの貴石が並んでおり、まんざらでもない様子だ。
「よけいなことであれば失礼した。あれはあなたの『馬』でしょう。くつわがあればもう少し乗りやすいかと思ったのだが。あなたは彼の首にしがみついた状態で意識を失っていた。〈恵まれた中洲〉のすぐ近くで、偶然行きあって保護した」
「ここは?」
「メサウィラ。当家は樹上城の一角に部屋を賜っている。何も心配いらないから、治るまでここにいなさい。先ほども見たとおり、樹上城は〈草の毒〉から遠く空気は清浄だが、高度が高く危険もある。それだけは注意して、からだをいといなさい。それと――セレステ」
 同じ年頃の少女が顔を出した。「妹だ。あなたの身のまわりの世話をまかせている」
 少女は手を振った。ひだのある長衣に、濃い赤の優美な布を重ねていて、首や腕に邪魔なばかりの装飾をつけている。ひと目で、戦いを免除されている女だとわかった。
 自分も似たような長い衣を着せられていると気づいて、エンジュはおかしかった。このかっこうをしていれば、戦わない女にみえるだろうか? たとえばこのままメサウィラにいれば、戦わない人生があるのだろうか。
 ティンダルで夜な夜な馬屋に忍びこみ、つかの間、戦いの生活から逃れていたのが嘘のようだ。ひとときスエンの歌声が心を溶かしても、手足には常にアルバ・サイフを着用せざるをえず、真夜中に重い手足で寝屋に帰った日々は、そう昔のことではない。
 エンジュははっとして、自分の両手首を見た。そこにいつもあったはずのものがない。次に長衣をめくって、その下の足首もみた。マリオンのつけた傷は、清潔な包帯で手当されていた。
「だめよエンジュ、兄の前でそんなことしちゃ」
「『それ』なら、私が預かっている。ほしいか?」
 話がわからないふうのセレステが、首をかしげる。
「ほしくは……ない」
「ならいいだろう。樹上城の中は安全だ。ただの娘として、生きなさい」
「え? ザイウス? 何それ! どういう意味」
「頼む」
 少女二人を残して、男は部屋を出ていった。
(あの男、わたしがティンダルだと知っている)
 メサウィラの樹上城に部屋を与えられている男。つまり、帝王から遠くない場所にいる男。メサウィラ帝王――それは〈メサウィラの黒ぶどう〉としてマリオンをティンダルに派遣した男、ティンダルの敵。
 ――戦え――戦って、おまえの運命を勝ちとれ。……
 かつて、父が奴隷だったマリオンに与えた言葉。
 エンジュは自分の手首を見た。〈ティンダルの馬〉はみな、アルバ・サイフの痕跡が、両手首、両足首にくっきりと刻まれている。戦いを拒否していた戦いを拒否していたエンジュとて、常にあれを引きずっていたのだから同じことだ。しかし今、その跡も、刺された傷とともに清潔な包帯で覆われ、回復を待っている。
 セレステはエンジュの寝台に座り、いつくしむように傷跡をなでた。
「女の子なのにひどいわ。ザイウスはよく連れてきてくれたわ。ここにいれば安全よ。ずっといてもいいのよ」
「そんなわけには……」
「彼、ここが気に入ったみたいよ? エンジュだって、ここにいたらここが好きになる」
 ルルはすっかりくつろいで、床のうえで伸びている。
「ザイウスのことも、気に入ってくれたらいいんだけど。愛想が悪いから、よさをわかってくれる女性がいなくて。パンタグリュエル家は自由に生き方を選択できる家じゃないから、それじゃ困るんだけど。顔の傷も怖いし。あれだって名誉の負傷なんだけど」
「生き方を選択できないの?」
 エンジュは思わず訊いた。
「ザイウスが帝王にとりたてられて、帝国貴族に叙されてしまったの。もうただのザイウ
ス、ただのセレステじゃいられない。帝王から授かったものを次代に受け渡すのが私たちの役目」
 少女は語る。「そうしなきゃ、帝王のお志は、ただ帝王が生きている時代だけのものになってしまう。帝王がどんなに立派な方だろうと、おひとりではそれだけ。ほかの者が、帝王が大事にするものを大事に思い、それを次代に渡さなければ」
「帝王が好きなの?」
 セレステはかわいらしい瞳をもっと丸くして、それから噴きだした。
「やっぱり女の子なんだ。あんなもの身につけてたくせに。いいわエンジュ、よく眠れるように、アルキス様の功績を講義してあげる」
 そうして、メサウィラの娘は身をひるがえした。エンジュの敵を、彼女は何より大事にしている。
 ――戦えるのか。
 エンジュは窓辺から眼下の風景を見渡した。これが、うわさに聞く〈恵まれた中洲〉。
ティンダルをいくつ集めれば、こんな大きな街になるのだろう。
(これほどの力をもつ帝王とマリオンと、たった一人で、ティンダルでいちばん弱いわたしが。この人たちは敵なのに、わたしたちを滅ぼしたのに、こんなにやさしい。その人たちが尊敬する帝王)
 マリオンは帝王に認められるため、〈メサウィラの黒ぶどう〉としての働きを示した。
 帝王アルキスとは、どんな人なんだろう。
 右足をルルにつつかれた。痛いよルル、と彼をみると、くつわを試してみろといわんばかり、手綱をくわえてさしだした。
「まだむりだよ」
 エンジュは、ルルの土色の皮膚をなぞった。ゆるりと動いたルルのしっぽが、青ざめた虹色に光った。