02. ポイント・オブ・ノー・リターン - 4/6

 アルバ・サイフは重い。両手両足に装着したバングルから鋼の糸がのび、それぞれの先端に刃がくくりつけられている。一見したところ軽そうにみえるが、糸の先の刃を思いどおりに操るにはかなりの腕力と脚力を要する。
 このアルバ・サイフの糸と刃こそ、報酬と引き替えに戦闘行為をおこなうティンダルの価値そのものだった。なぜなら、この時代、アルバ・サイフの四本の糸ほど細い鋼鉄の糸を精製する技術は存在せず、四つの刃ほど白く美しく鋭い刃を鍛造する技術も存在しないからだ。
 アルバ・サイフはティンダルにのみ受け継がれる武具であり、製造方法は謎に包まれていた。しかし、ティンダル自身もアルバ・サイフを新たにつくりだすことはできず、研ぎによって状態を保つのがせいぜいだった。けれど不思議なことに、鍛冶の村ではないティンダルの拙い研ぎでも、アルバ・サイフはその輝きと鋭さを保ち、その繊細にして鋭い唯一無二の刃によって、ティンダルは〈草の海〉において最強の名をほしいままにしていた。
 アルバ・サイフの恐ろしさは、何よりもその縦横無尽な攻撃――使用者の技術によるのだが――にある。
 右手首、左手首、右足首、左足首。そこからのびる四本の糸と四枚の刃は、あるときは四方向から逃げる敵の行く手を塞いで刺し貫き、あるときは一方向から四枚同時に敵に襲いかかって致命傷を負わせる。両手足の刃それぞれにみずからの意思を反映させて戦うさまは、まるで舞のようでもあった。だからティンダルでは、筋力の増強とともに、舞踏の訓練も行われる。
 戦勝の夜、その日の戦を戦い抜いた戦士たちが、雷のように激しく轟く太鼓の拍子のなかで、ティンダルの〈馬の踊り〉を舞う。
 舞い手は男と女が入り交じり、男女は左右に分かれて、馬を模した足はこびで大地を踏み鳴らす。
 いつもは糸をのばした状態で腕力と脚力によって操作されるアルバ・サイフも、このときは足に巻きつけられ、刃を逆にした状態で大地を打っている。カツ、カツ、カツカツカツ、と、馬の蹄を思わせる音が、踏み固められてかたくなった地面で鳴る。
 馬の足の一本と化した舞い手が、みずからの足を振り上げ、飛び、大地に叩きつける。優れた踊り手ほど、高く、力強く、俊敏だ。優れた〈ティンダルの馬〉の戦勝の踊りは、太鼓を無視して加速する。一人、また一人と、速くなっていく拍子に追いつけなくなり、転倒するか、あるいはみずから踊りの輪を抜けていく。最後に残った者が最上の舞い手であり、最強の戦士でもある。
 この日も最後まで立っていたのは、お決まりの二人だった。
「マリオン!」
「フリーッツ!」
 元奴隷の少年少女である。
 馬の足を模した〈馬の踊り〉に、手の振り付けはない。両腕は胸の位置にあげたまま、足だけをひたすら高速で振り上げ、跳ね、振り下ろす。上半身はほぼ動かず、足下だけで踊るため、ティンダルを恐れる北方の異民族からは〈薄氷の舞〉とも称された。
 マリオンとフリッツは向かいあい、左右対称の動きで踊りを加速させていった。マリオンの黄金の髪は、まるで王者の王冠だ。相方の少年は、あたかもその忠実な下僕。二人ともラピスラズリをひとつもまとっていないが、誰の目にもその名声は明らかだった。二人から飛び散る汗が、ラピスラズリに代わる王冠の宝石だった。
 太鼓の打ち手は、踊り手の加速に合わせて拍子を変化させる。カツ、カツ、カツカツカツ、カツ、カツ、カツカツカツ――いつ果てるともしれない足音に、取り残された踊り手たちもまた逸っていく。これを見る者、聞く者はみな、誰もがこの野蛮な音楽に戦士の血を駆り立てられ、力強く手を打ち鳴らす。
 そんな中で、ティンダルに一匹きりの大トカゲは、まったくの傍観者だった。踊りの輪の外で悠然と横たわり、長い舌でかたわらの少女の手をなめる。湿った舌の感覚に、エンジュは一瞬現実に引き戻されて、またほの暗い感情に戻っていく。少女は傍観者ではいられなかった。それでいて、少女はもはや、拒否することでしかあの場所に関わることはできない。
 ――どうして、あそこで踊っているのが、わたしじゃないのだろう。
 それがまごうことなき自分の選択の結果であることは、よくわかっている。つい先日までは、このことになんの苦痛も疑問もなかった。ただ心は静かだった。それなのに、あの日、馬屋で少年に会ったときから、心が騒ぎはじめた。
 拒絶していたラピスラズリが、ほしくなった。
 ――いらない、あんなもの。
 そのはずだった。
 ――でも。
 手のなかには、幼いころたったひとつだけもらった、空の死骸のような石がある。
 二人はとっくの昔に脱ぎ捨てたというのに、今の自分は、肌を埋め尽くすほどのラピスラズリを与えられて、そのあとで捨てたいと願っている。
 エンジュは立ちあがり、戦勝の宴をあとにする。巨大なトカゲも、のそりと歩きだした。いっそう激しくなっていく二人きりの踊りから、少女が顔を背けた直後、太鼓が大きくゆっくり二回打ち鳴らされ、舞の終焉が告げられた。敗者たちが歓声をあげて、勝者を祝福する。
 吼え猛る戦士たちの炎も、馬屋までは届かない。エンジュは逃げこむように中に入った。いつもの藁に身を投げて、やってきたトカゲの首に腕をまわし、抱きしめる。
「ごめんね、ルル」
 少女はものいわぬ親友に語りかける。「どうして、こんなに弱くなっちゃったんだろう。戦うことから逃げてきたせい? ここのやり方に疑問をもったときに、もう弱くなることは決まっていたのかな? ありがとう。ルルだけ、いつも一緒にいてくれて」
 近くで、馬がうなった。フリッツのルルだ。馬の鼻先をなでてやり、エンジュは目を閉じる。馬屋の暗がりだけが、少女の居場所だ。今夜もスエンの歌声はやさしい。スエンの若い仲間たちの歌も。あんな野蛮な勝利の音楽なんかより、ずっといい。
「エンジュ?」
 暗闇の奥から、少年の声が近づいてくる。
「……」
 どうして来たの、とは訊けなかった。
「寝てるの?」
 エンジュは闇の中に手をのばした。その手を、フリッツは正確にとる。エンジュは指先をその手に絡めて、思いきり引き寄せた。少年は声をあげかけたが、少女のうえに倒れこむことなく腕で堪えた。
「危ないよ」
 片手にルルを、もう片一方の手にフリッツの手を抱いたまま、少女は何もいわなかった。
「エンジュ」
 フリッツの声は、やさしく静かだった。「もうすぐ十六歳の試合だね」
 エンジュは答えない。ただ、絡ませた指に力をこめる。
「十六歳になったら、一人前の〈ティンダルの馬〉。子どもの禁忌もこれで終わる。こんなところに隠れて歌をきかなくても、葬礼に参列して近くで歌を聴ける」
「うれしくない」
 エンジュは押しつぶした声で返す。「わたしは、わたしだけの歌がうれしかった。それに」
 あなたとわたしだけの歌が、とは言えなかった。
「わたしは一人前の〈ティンダルの馬〉になんかなれない。なりたくもない」
 大人たちの決めた道筋から、エンジュはずっと逃げてきた。それなのに、今フリッツに伝えていることも決して本当ではなかった。
 エンジュは今すぐ、優れた〈ティンダルの馬〉になりたかった。今までそうなるための努力と戦いを放棄しておきながら、目の前にいるひとりの少年のために、今までの選択を否定したかった。
 フリッツには、絶対に知られたくない。
「試合には出る?」
「いつもどおり、引きずりだされて負けるだけ」
 十五歳の月例大会は、アルバ・サイフの刃を覆った状態で戦う。覆われた刃なら皮膚を切り裂かれることはないが、やることは実戦と変わらない。試合に引きずりだされれば、抵抗しないエンジュは打撲だらけになるのが常だった。相手の力量に難があればあるほど、負けの判定が出るまで、痛い目に遭う。
「何もせずに負けるのは痛いよ」
「でも、今さら戦えない。このままティンダルで、役立たずとして生きていく」
「エンジュがしんどいだけだ」
「一回立ち止まったら、もう動けなくなった。フリッツが理解する必要はない」
「そうじゃなくて……」
 少年が言い募る。「そういうことじゃなくて」
「黙って。歌が聴こえない」
 スエンの歌は、もう聴こえなかった。

 少年をおいて、馬屋を出た。
 スエンは自分たちのやりとりを聞いていたのだろうか? いつもより、歌声の途絶える時間が早い。謡い家の歌の訓練は、日によっては朝に及ぶこともあった。
 白い月が、ティンダルの地を照らしている。
 砂地のうえに、濃い人影がのびた。
「……マリオン?」
 豊かな金の髪は、腰に届くほど。彼女を知る者のあいだでは、獅子の娘ともいわれる元奴隷の少女。膨大な量のラピスラズリを与えられておきながら、ためらうことなく脱ぎ捨て、今はなにひとつ装飾をもたないティンダルの戦士。アルバ・サイフを授けられた〈ティンダルの馬〉が命じられるとおり、深夜でもバングルから鋼の糸と刃を垂らしていた。
 マリオンはほほえむ。長いまつげが月の光を跳ね返し、四枚の刃がからだの動きとともに跳ねて落ちる。まるで生命あるもののようだ。
 知られた? エンジュは硬直した。知っているから、今日ここに来たのか。フリッツがつけられた? それとも、もっと前から?
「エンジュは、歌を知っている?」
 元奴隷の少女は問う。
「歌?」
 彼女も、謡い家を訪ねてきたのだろうか。
「わたしは、ほんとうは歌を探しにきたの」
「どういうこと?」
「鍵よ。星々の庭の鍵」
「鍵って、なに?」
 エンジュにはマリオンのいっている意味が理解できなかった。
「ひらくもの。扉の奥に隠された秘密をおしひらき、光をあてるもの。秘密を、暴くもの」
 彼女のほほえみは変わらない。
「でも、今のわたしは〈ティンダルの馬〉。〈ティンダルの馬〉に求められることをする。今度の試合で優勝したら、フリッツを花婿に指名するわ。忘れないで――あなたがどれほど強く願っても、戦わなければ勝ちとることはできない」
 突然、冷たい水の中に叩きこまれたようだった。
 十六歳の最初の月例大会。それは〈ティンダルの馬〉にとって特別な意味がある。十六歳は結婚年齢であり、男女問わず多くの若き〈ティンダルの馬〉がこの歳で結婚して子どもを産む。次世代を育てるのは、子どもの家の役目だ。戦士の役目にある女は、出産後も戦士として戦いつづける。
 結婚相手の選択権は女にある。十六歳の最初の月例大会を勝ち抜いた娘が、最初に相手を選ぶ権利が与えられる。ティンダルにおいて、花婿の価値は戦士としての価値だけであり、自然、その世代で最強の娘が最強の男を選ぶことになる。
 エンジュの世代で最強の女戦士は、いうまでもなくマリオンだ。そして、男はフリッツ。大会で敗れた者に選択権はなく、たとえ秘密の恋人が勝者に奪われたとしても、ティンダルでは声をあげる権利はない。
 強い者が強い者を手に入れ、その子どもを産む。それだけが、ティンダルの結婚に関する掟だった。それと無関係に発生した恋愛は姦通であり、掟に従って裁かれる。
「戦いましょう、エンジュ。最初にティンダルにつれてこられたときの、あの戦いは、まだ終わっていない。あのとき、あなたは戦おうとしなかった」
「あれはマリオンの勝ちだ」
 エンジュは思わぬ言葉に、いいかえす。「あなたが受けとったラピスラズリが、その証」
「勝敗は誰かに決めてもらうことではないわ。自分が決めることよ。あんなものはただの飾り。いつでも捨てることができる。あなたもわかっているはず」
「マリオンは、わたしを買いかぶってる」
「わたしはあのときわかったの。わたしたちはこれから長いあいだ戦うことになる。あなたが戦いを拒んだ瞬間にわかった」
 王者のたてがみをもつ少女は、金の瞳を細めた。
「あなたと戦う。そのためにわたしは――フリッツと結婚する」
 いや、という言葉が、どうしても出てこなかった。自分はマリオンに負ける。
 ティンダルの戦士は、みずからに与えられたアルバ・サイフを十全に扱うため、幼いころからこの武具に特化した訓練を受けている。手よりも足のほうがより操作が困難であるために、十一歳で戦士の訓練を始めたころの月例大会は足技しか使えないという決まりがある。足を存分に動かせるようになってから手技を磨くのが、伝統的な順序だった。
 しかし、エンジュは段階を踏まずに来ている。攻撃に直接関係しない基礎訓練は積んでいるが、実戦でアルバ・サイフを扱う練習が欠けている以上、今さら戦うといってもむずかしかった。では、今から訓練するか? すでに次の新月が近づいているというのに、同年代一の戦士であるマリオンに勝てるわけがない。
 足もとにいるルルの黒い瞳が、満月を受けて光った。
「わたしは、戦えない」
「それなら、フリッツがわたしのものになるだけ」
「誤解しないで。フリッツはわたしのものなんかじゃない」
 この期に及んで、ティンダルの罪に問われることを恐れている自分がいた。だが、そう宣言せずにいられなかった。
「そう」
 マリオンはエンジュに背をむけた。とっさにエンジュは、自分の手足からのびる四枚の刃をすばやく一瞥した。そうしたあとで、自分の反射的な動きに怖気がはしった。
 マリオンは仲間だ。しかも、かつて幼い自分を奮い立たせるためにむりやりつれてこられた奴隷の少女。その彼女に、何をしようというのか。
 マリオンは決して、フリッツとエンジュのことを族長に報告しないだろう。すでにエンジュは罪を犯しているけれど、発覚して罪に問われることはないだろう。しかし、やはり自分はとうに罪人だった。犯した罪を罪でなくするために、背をむけたマリオンを攻撃しようとした。
 慄然とするエンジュを、元奴隷の少女が振り返る。
「いいの? ――」
 やはり、マリオンには勝てない。絶対に。

「久しぶりだね、エンジュ」
 天幕に入ると、小さな明かりがともされた。目隠しされた人々は明かりを必要としないから、謡い家の明かりは訪れるエンジュのためにつけられる。
「スエン……まだ休んでなかったの? わたしの足音で起こしてしまった? 歌がやんでいたから、とっくにみんな眠ったものと思っていたけれど」
「恋をしたね、エンジュ」
 謡い家の長老たる老婆は言う。
 エンジュは息ができなくなって、それからおそるおそる老婆の目を――目隠しのむこうからすべてを見通すその目をみた。
「恋をしても、おまえは歌を忘れない。むしろ、より歌に救いを求めている」
「助けて!」
 エンジュは、スエンの膝に倒れこんだ。耳のよい目隠したちに耳障りとはわかっていたが、声をおさえることができなかった。
 スエンは、幼いときからそうしてくれたように、エンジュの背中にあたたかな手をのせた。それだけでエンジュは安堵した。しかしまだ、エンジュの中で何かが荒れ狂っていた。
「わたしは戦いたくない。歌をうたって暮らしていたい。歌が好きなの」
「おまえは歌を愛している。それは本当。が、戦いたくないというのは嘘」
「お願い……謡い家の人たちの背負う『罪』をわたしにも頂戴。わたしも目を隠して歌う」
「おまえは目隠しにはなれないよ」
 そう言って、スエンは自分の目を覆う布に手をかけた。周囲の目隠したちがどよめく。それは、禁忌だ。
 布がはずされたとき、エンジュはようやくこの謡い家がどういう場所なのか理解した。
「……ごめんなさい」
「目隠しの歌は、目隠しだけのものなのだよ。かわいい御子」
「でも、どうして今? 今までどんなに訊いても教えてくれなかったのに。わたしが十六歳になるから?」
「そのときが来たんだよ」
「スエン……?」
「さて」
 スエンの声色が変わった。エンジュはとっさに老婆の膝を離れる。
「目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある」
「……スエン!」
 なんという喜びだっただろう。
 長年密かに追い求めてきたもの、決して許されなかったものが、与えられる日が来るなんて。
「わたしに、歌を教えてくれるの?」
「そのとおりだ」
「わたしの歌は……何の歌?」
「〈星々の庭の歌〉」
「星々の、庭の、歌」
 甘美な響きだった。エンジュは何度も、その言葉を口ずさんだ。エンジュの歌! それは、エンジュのものだ。エンジュだけのもの。
「スエン、その歌は私たちも知りません」
 若い目隠しの少年ロキが口をはさんだ。「私たちも習ってよろしいでしょうか」
「これはエンジュの歌だ。おまえたちは、ただ聴きなさい。ただし、エンジュ。おまえも、この歌をめったなことでは口にしてはいけない。私がうたうこの歌を、復唱してはいけない。だからエンジュも、ただ、聴きなさい。何度も聴いて覚えなさい。決して忘れぬように、心に刻むのだよ」
「はい」
 それすらも、少女に許されるのは初めてだった。エンジュは目を輝かせる。スエンの歌を間近に聴ける。それも、こちらが歌を覚えるまで、スエンは何度でもうたってくれる。
 もう、ついさっきまで頭を悩ませていたことなど、どうでもよかった。誇らしさで身がちぎれそうになるのを、少女ははじめて感じた。誰でもいい、禁じられた歌が自分にだけ許されたことを、伝えたかった。
〈神々の御世、星々の下なる丘にて……〉
 目の前にいるスエンの口から響いてくる声に、胸がときめく。
 それは――神々がもっと身近だった時代、星神の子どもシリウスが少年に恋をして、少女の心を手に入れるまでの物語。