仲間と争うのがいやなら、奴隷を打て。父親である男は、暗にそう言った。
マリオンという、異民族の響きをもつ名の少女が、円の内側に押しだされてきた。円の中で解放されはしたものの、自由が与えられたわけではない。円から一歩でも逃げだせば、ふたたび暴力にさらされるだろう。少女は身がまえて、同じ円の中にいるもう一人の少女をにらんだ。
「やれ、エンジュ」
そいつは異民族、敵だ。
「遠慮はいらない。仲間じゃないから殺してもかまわない。歳もおまえと同じで、身体能力にもそう差はない。公平だ」
おまえは今まで、仲間に対する手かげんの方法がわからなかっただけ。おまえは戦えるはず。おまえとてティンダルの子、最初の競争でラピスラズリを獲得した、若き優秀な戦士なのだから。
エンジュは頭を振る。
「やれ」
強く、何度も頭を振る。
「言っている意味がわからない」
「マリオン」
男の目が、冷えた。「戦え――戦って、おまえの運命を勝ちとれ」
奴隷の少女もまた、男の言葉を理解できないようだった。
「聞こえなかったのか? マリオン。目の前のそいつを倒すことができれば、おまえは奴隷ではなくなる。おまえにラピスラズリを与え、そのまま戦士として月例大会に参加することを認めよう。もちろん、もし優勝することができれば、さらにもうひとつラピスラズリを与えよう。ラピスラズリとは、このティンダルにおける栄誉だ。それを、異民族の奴隷であるおまえに与えるといっている」
円を囲む人々がざわめき、同時に少女が動いた。
「!」
少女奴隷がくりだした足技を、とっさにエンジュは腕で受けた。これにも、人々はざわめく。エンジュは常に無抵抗のまま敗れてきたからだ。エンジュは自分で自分の行為に息をのみ、その隙に第二撃を受けて、円の外に飛ばされた。
「約束どおり、この娘マリオンを奴隷の身分から解放する」
ラピスラズリがひと粒、傷だらけの少女の手の中に落とされた。「よき〈ティンダルの馬〉として生きよ」
どうすればよいのかわからないという様子の少女のために、父は手ずからラピスラズリに飾り紐を通し、首にかけてやった。人々は少女に駆け寄り、自分たちが与えた傷を手当てする。もう一人の少女には、蔑みの一瞥を。
その日、満身創痍の元奴隷は、月例大会十一歳以下の部を勝ち抜き、異民族でありながらみずからが優れた〈ティンダルの馬〉であることを証明した。元奴隷は一転、人々の尊敬の的となり、十五歳以下の娘たちの寝屋でよい位置の寝床を与えられることになった。一方、長の娘である少女は、一応長の血を引いているという留保はあったものの、以後、集落における「見えない」存在として生きていくことになる。
それでも、ときおりは長の娘のために奴隷の子どもや罪人が買われてきて、試合相手としてあてがわれた。しかし少女は頑として拒みつづけた。そのためティンダルの人々は、最初の奴隷マリオンほどには才のない奴隷を仲間として受け入れるか、あるいは罪を犯してどこかの村か都市を追放された者をその集団に代わって断罪する手間をかけさせられることになった。そうしてエンジュの最初の試合参加から一年経ったころ、ティンダルの人々はエンジュを見放した。
一方、長の娘として生きるはずだった少女の代わりのように、奴隷の娘マリオンは頭角をあらわしていった。月例大会で優勝を重ね、村の「仕事」でも功績を認められて、結婚年齢が近づくにつれ、異民族の少女は大量のラピスラズリを身にまとっていった。そしてある日、重く邪魔なラピスラズリを、すべて脱ぎ捨てた。もはや彼女は名声の証明を必要としなかった。
名声と自由をほしいままにする元奴隷を、名声からもっとも遠い位置にいる、それをみずから選びとった少女が見ていた。その少女を、かたわらのトカゲが、感情を宿さない黒い眼で見ている。
トカゲはやがて、少女のてのひらの上に乗りきらない大きさに育っていった。ときどき肩に乗って甘えることもあったが、もはやそんなことも容易ではないほど大きくなった。
以前はものからものへ飛び移るとき音もさせなかったが、今はどんなに滑らかに跳躍してもそうはいかない。幼児ほどの大きさ、長い尻尾まで含めれば成人ほどの全長になった。
「もうどう見たって大人だよね」
エンジュはトカゲの背中に頭をのせて、草の上に寝転がっていた。「ルルのお嫁さんはどこにいるのかなぁ。それとも、お婿さんかな」
ルルは何も教えてくれなかった。一度も、同じ種らしき生物には出会わなかった。けれども彼はずっとエンジュと一緒にいた。少女はトカゲのからだを枕にしたまま、目を閉じる。
遠くから、地響きが聞こえてくる。それから多くの馬が疾駆する音と、鬨の声と、金属音と悲鳴。
戦場だった。しかしエンジュは目をひらかない。悲鳴のほとんどは敵のものだ。ティンダルが発する音は、馬の足音と鳴き声、金属音と、それらの金属が敵を貫く音だけ。
〈ティンダルの馬〉は無言で切り裂く。
一群の中心にいるのは、元奴隷の少女マリオン。彼女は腰ほどの長さもある金の髪を、まとめることもせず波打ちうねるがままにさせ、金の疾風かのように戦場を駆けまわる。
あるときはティンダル随一の名馬であるホランにまたがって、馬上から両手首のバングルを自在に操り、足もとにいる敵を鋼の糸の先の〈一の刃〉〈二の刃〉でなぎ倒す。またあるときは、ホランの背中から敵のかたまりに飛びこむと、両足首のバングルを巧みに動かして〈三の刃〉〈四の刃〉で切り刻み、待っていたホランの背中へ、何ごともなかったように帰る。その間、マリオンはひと言たりとも発することはない。
周囲では、マリオンほどの速度と正確さはないにせよ、彼女の脇をかためるにふさわしい〈ティンダルの馬〉が、やはり声もなく敵を斬り伏せていく。ティンダルの戦士は男も女もなく、戦士として育成された者はみな特有の武具であるアルバ・サイフを着用し、愛馬と連携しながら戦場を縦横無尽に行き交う。
アルバ・サイフという武器を扱うことによって、ティンダルは〈草の海〉で最強の名をほしいままにしていた。多くの部族は、ティンダルが「仕事」として参画する戦場を忌避し、敵方にアルバ・サイフを見いだしたらその戦いに勝利はない、とまでささやかれた。
四枚の刃が蛇のようにうねるさなかで、少女は目を閉じて横たわっている。戦場となった荒野のまっただ中、ぽっかりあいた空白、背の高い草が生い茂る場所で。
この戦いがティンダルの勝利で終わるのは、もはや時間の問題だった。
静けさのおとずれは、戦いの終わり。そうなったら隠れ場所を出て、目立たないように集落に戻ればいい。仮に人目についたとしても、ティンダルでエンジュにかまう者はない。
エンジュは沈黙の荒野に降り立つ。戦場は〈毒の水脈〉の影響が少ない乾いた野が選ばれた。先にルルを歩かせて、自分たち以外だれも動く者のない戦場を、両手両足の武具を引きずって少女は行く。
ティンダルの武具アルバ・サイフは、両手両足それぞれのバングルからのびる糸にくくりつけられた刃だった。目にみえないほどに細い鋼の糸を、馬上から巧みに操り、敵を切り裂くのが〈ティンダルの馬〉。
が、一度も使われたことのないエンジュの刃は、くもりのない白銀だ。仲間を蹴ることすら避けてきたエンジュには、手足を同時に駆使して四枚の刃で攻撃する技術は培われていない。それでもティンダルであるからには、常にアルバ・サイフを身につけることを強いられた。
マリオンが扱えば蛇のようにうねり、意思もつもののように刺すアルバ・サイフも、エンジュの手足にある限り抜け殻だ。重い蛇の抜け殻で大地を擦り、軌跡を描いて砂埃をたてながら、エンジュは歌を口ずさむ。
弔いの歌は、いちばん最初に覚えた歌だった。その役目にあるわけでもない少女の歌に、意味などない。金やラピスラズリと引き換えに戦士たちをさしだして戦場を支配するティンダルにとって、敵はいつでも交換可能であり、どんな戦いも食い扶持以上の意味はなかった。
砂地の太陽が傾く。
静かにね、と合図して、真っ暗な馬屋に忍びこんだ。物音をたてないよう、藁のうえにそっと横たわると、日ごろ戦場を駆け抜ける馬たちも、つられて息をひそめる。
馬屋に静けさがひろがり、その奥から、歌声が低く響いてくる。謡い家は馬屋のとなりにあった。
謡い家の長老スエンと出会ったあと、決して教えてはもらえない歌をどこで聴くのがいいか探しまわった。おそらく馬の気配に隠れるのだろう、馬屋なら謡い家の人々に気づかれなかった。
気づかれれば、彼らは歌をやめてしまう。歌はティンダルの禁忌であり、目隠しされた人々の責務だ。無責任に歌を欲するエンジュを、彼らは天幕に受け入れこそすれ、決して歌を許すことはない。でも、エンジュの行動は察しているのだろう。今日も闇のむこうから、かすかに老婆の歌声が聞こえる。
藁の匂いを吸いこみ、エンジュは姿勢を変えた。ふいに、手首がかたいものに触れる。エンジュはそれを指先で探った。――手首だった。少女は悲鳴をあげた。
「ん?」
藁が声を発して盛りあがり、エンジュは転がり落ちそうになる。
しかし、そのまえに誰かの手が少女の手首をとらえて、腰を支えてきた。
「――ごめん!」
聞いたような男の声だった。いや、男というより、まだ少年。
「仕事のあとルルの世話して、そのまま寝てた。その声、エンジュ?」
「そっちは……フリッツ?」
「何してるの?」
「別に何も」
エンジュは少年の手を払った。「おちこぼれには寝屋はいづらいだけ。……さ、はやく帰ったら? 今ならまだ夕餉が残っているかもよ」
「いや、もうむりでしょう。エンジュは十五歳以下の男の集団を過小評価してる。ところで、どうして声をひそめるの?」
「こんな深夜に、結婚前の男女が馬屋でみつかってみなさい。いくらわたしでも、姦通の罪でアルバ・サイフに裂かれるのはいや」
ティンダルの結婚年齢は十六歳だ。正規の手続きを踏んで、女が男を選ぶことで結婚は成立する。正規の手続きを踏まない関係は姦通の罪に問われ、よくて追放、悪ければ仲間の刃によって処刑される。
「わかったら帰って。無事ですみたければ、ここでわたしと会ったことは誰にもいわないで。なんならあなたのルルの手入れはしておいてあげるから。さあ行って」
「きみのルルは毛がなくてうらやましいな」
「皮肉はやめて」
ルルは、フリッツの愛馬の名前でもある。ティンダルでは馬によくつける名前だ。
エンジュは自分の馬をもたない。いるのはトカゲのルルだけだ。なぜならティンダルでは、ラピスラズリが一定数を超えないと馬を与えられないからだ。
「もういいでしょ、行って」
「歌だね。謡い家が近いからかな」
エンジュの期待に反して、少年の耳はかすかな音をとらえていた。
「どうしてそんなにいやそうな顔?」
「帰る」
エンジュは立ちあがった。しばらくここには来られない。泣きそうになるのをこらえて、踵を返す。馬屋のなかの馬たちが、エンジュの動揺を察してざわつく。
「待って」
フリッツがエンジュの手をつかんだ。暗闇のなかで正確に動く少年は、確かに優れた〈ティンダルの馬〉なのだろう。
「エンジュは歌がきらい?」
「……」
「言ってはいけないことかもしれないけど、俺は謡い家の人たちの歌が好きだ。知ってる? 謡い家の人たちは、ティンダルの罪をその身に背負って生まれてきた。ティンダルの罪を歌い継いでいくのが、あの人たちの義務だ。だけど、あの人たちの声には、自分が犯したわけでもない誰かの罪を恨む響きは全然なくて、やさしい」
少女はそのときはじめて、目の前のひとりの少年を見た。暗闇のなかで表情まではわからなかったが、その声には表情がある。
「俺はだれかが死んだとき、あの人たちの歌が朝がた聴こえてくるのを、不謹慎だけど楽しみにしてて。馬屋で聴こえるなんて知らなかった。今日はついてる」
「それならもう少し声を落として。あの人たちはすごく耳がいいの。わたしたちが聴いてることに気づいたら、歌うのをやめてしまう。もう気づいているのかもしれないけど、あの人たちは本当にやさしいから」
あなたの言うとおり、といって、エンジュはふたたび藁のうえに横たわった。目を閉じると、ふたたび周囲の馬たちが気配を殺しはじめた。ひょっとしたら馬たちも、スエンの歌を聴きたくてエンジュの呼吸に合わせてくれるのかもしれない。
少年の手が少女の手をとらえたままだったが、振り払うことはしなかった。
